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“成長戦略”の幻想

「大阪都構想」に賛成か反対か、僕は大阪出身ではないが今回の住民投票の帰趨には強い関心があった。「都構想」は大阪に限らず、政令指定都市のある自治体にとってはかなりの関心事であったと思う。僕自身は、よくわからないこともあり、賛成でも反対でもなかった。

なぜ関心があったかというと、これを言い出した当時の大阪市長の橋下徹さんの日ごろの言動が、理屈ではなく“生理的に嫌い”だったことが大きい。橋下さんの発言のなかには、理屈では真っ当なことが多いと思うし、共感できることもある。しかし、しばしば露になる彼の高圧的、強権的、挑発的、さらに言うと傲慢不遜を地で行くような上から目線の発言に対して「行列のできる法律相談所」の頃から既に抵抗があった。それでも、大阪都構想そのものは大阪市民が決めることなので、賛成でも反対でもなく、ただ橋下さんが言い出したアイデアを大阪市民が是とするかどうかに関心があったのだ。

さて、その大阪都構想が2回の住民投票によって否決された。昨夜の記者会見を見ていると、維新代表の松井市長や代表代行の吉村知事の「自分の力不足」という発言はいかにも潔いものだった。まあしかし、都構想がほんとうにベストだと思っていたのなら、住民投票の結果をもっと悔しがるのが人間というものではないかな、と思ったことも事実だ。きっと、都構想は「命を懸ける」というような代物ではなかったのではないかという疑念すら湧いてきた。

それはそうとして、今回の住民投票を遠くから眺めていて、ひとつだけ気になったことがある。それは都構想を実現させたい側が常々口にしてきて、結果が出た後でも同じように力説している「大阪の成長戦略」という言葉である。大阪に限らず、「経済成長」は当然に必要だと言う発想に、僕自身は以前から強い抵抗感を抱いている。

平たく言えば、お金をたくさん儲けて会社を大きくしよう、生活を豊かにしよう、国際的にももっと誇れる国にしよう、という昔からある発想である。成長すること、大きくなることは常にプラスをもたらすという発想だ。でも、それが行き詰まってきているのが今の日本であることは間違いないだろう。成長がいけないと考えているのではない。成長には飽和点というものがあるんだという事実を前に、人間はもっと謙虚であるべきではないかな、と思うのだ。

成長とは、すなわちエネルギーの消費そのものであることは自明である。だから限界があることも自明であり、それを無理に推し進めるといつか限界点に達して、いろいろと不都合なことが地球規模で起きることも、今やほぼ自明だと思う。どこにもしわ寄せがいかずに、すべての国や地域が成長することがあり得ないことも当然に自明だ。考えてみればわかることだが、成長とは、すなわち搾取でもある。国単位でも、企業単位でも、人間単位でもそうだろう。

大阪の場合は、都構想が潰えた今となっては、とりあえず大阪万博の準備とIRの実現に注力することが成長戦略の課題だと言う。万博は時代に合っているかどうかは別として、それなりに結構なことだと思うし、IRだって経済的に見れば大きなメリットがある。でも、どちらもエネルギーはそれなりに消費するわけだし、それによって住民がより幸せになるとは到底思えない。だれかが太って、だれかが痩せるという構図は崩れないだろう。それが成長の宿命だからだ。

(11月2日、10時)

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民主主義は生き延びるか

昨日は朝からアメリカの様子が気になって、ほぼ30分おきくらいに状況を観察していた。ようやく(タイ時間の)今朝になって、大勢が明らかになってきたようだ。でも思った通り、往生際の悪い男が裁判に持ち込むようだから、最終結果が出るまでにはもう少し時間がかかるだろう。

いやはや、すべてはメディアが予告していた通りの筋書きで事態が進行している。まだ勝敗の帰趨がはっきりしない段階でトランプが勝利宣言をする。メディアは一斉にそれを否定する。トランプは不正が行われていると吠える。そして裁判所に訴えると息巻く。ツイッター社はトランプに警告を発する。すべて前もって報じられていた通りの展開だ。ただひとつ、トランプがこれほどまでに善戦するとは、メディアも本気では考えていなかったかもしれない。

公正な選挙こそ民主主義の根幹だということは大抵の人が認識している。その選挙に当事者が唾するとすれば、そしてそれが仮にその通りになってしまったら、すなわち民主主義の死である。たとえアメリカのこととは言え、まだ民主主義には死んでもらいたくない。

そんなことを考えながら、昨日は彼女ではない別の女性と寿司屋へ行った。離婚歴があって11歳の子供のいる40歳の女性。いろいろな写真を見せてくれた。緑一杯の広い土地に住んでいる。犬が15頭と猫が2匹、そして牛まで2頭いる。敷地内に3つの家屋があって、一つは両親、一つは自分と息子、そしてもう一つには犬と牛が住んでいる。

2時間ほどかけて食事しながら歓談した。一緒に食事をするのは昨日が初めて。なぜか彼女はタイ人なのに、そして僕は少しはタイ語が分かるのに、彼女は2時間の間、タイ語を一言も口にしなかった。英語圏に留学した経験があるせいだろうか、英語は殆どネイティブ並みだった。

僕はアメリカの大統領選挙を話題にしようと思っていたのに、すっかり忘れてしまっていた。気が付けば、犬も含めたお互いの家族の事ばかり話していた。もちろん亡くなった前妻やその子どもたち、そして今一緒に住んでいる彼女のことを話した。女性は両親と一人息子のこと、そして別れた男のことを話した。

最後に、今度また別の寿司屋へ行こうと誘ってみた。でもイエスかノーの明確な返事はなかった。次がなければ縁がないのかもしれない。それに、あんな流暢な英語を話されると、少し引け目を感じる。僕がお勘定をするとき、人の財布の中を遠慮もせずに覗き込む女に会ったのは生まれて初めてだった。

ところでアメリカの大統領は、トランプでなければ誰でもいいと言うのが僕の偽らざる気持ちだ。常ならざる人物が強大な権力を握るのが好きではないからだ。

(11月5日、9時40分)

やっぱり菅さんはハチャメチャだ

今日の参議院予算員会の菅首相の答弁にビックリ仰天した。例によって野党側は執拗に日本学術会議の問題を取り上げているのだが、今日は自民党の議員の質問に首相は答弁した。「内閣府との事前調整がなかったから6人を任命しなかったのだ」という意味にもとれる答弁をしてしまったのだ。

事前調整とは、学術会議が推薦する候補者について、定員よりも多い候補者を書いた名簿を内閣府に提出させ、その中から政府側が選んで任命するというやり方だ。この方式は2017年、当時の大西会長の時に安倍政権が要求したものだ。大西会長は、これまでのやり方とは大きく異なっているので疑問を抱いたようだが、結局政府の言いなりに応じてしまった。

ところが大西会長の後に会長を襲った山際寿一京大総長は、今年の会員候補者の推薦について、定員ぴったりの名簿を内閣府に提出した。2017年以前のように、事前調整はしなかった。菅首相の答弁は、この事前調整がなかったから6人を任命しなかったという意味にとれる。つまり、「事前調整に応じなかった腹いせに任命を拒否した」と言っているに等しい。無茶苦茶な論理だ。

僕はもうだいぶ前に、事前調整しなかったから任命拒否に及んだのだろうと言う推測をこのブログに書いている。まさか参議院予算委員会の場で、このような答弁が首相の口から本当に出てくるとは想像もしていなかった。もうこの政権は度し難いのかもしれない。仮に本当に嫌がらせでそうしたのであれば、尚更それを公式の場で言ってはならないのは当たり前だ。「権力を振り回して何が悪い」と言っているようなものだ。

権力とは恐ろしい。人間をこうも変えてしまうものらしい。権力を握っているからこそ、それをみだりに振るってはならないというのは、権力を持つ者に対する古くからの戒めである。菅さんにも、それくらいの常識は弁えてほしいものだ。常識、すなわち大概の人が分かって実践している事柄だ。それをちょっと踏み外すと、たちまちに「強権」となるわけだ。

(11月45日、20時20分)

郵便投票は不正の根源?

アメリカの大統領選挙もいよいよ大団円を迎えようとしている。投票日の翌日のアメリカのテレビ報道や新聞記事に目を通すと、今回はやけに慎重な姿勢が目立った。その中で注目を集めたのがトランプさんが贔屓にしているFOXテレビだった。開票の非常に早い段階から「バイデン有利」というニュースを流し続け、ホワイトハウスは怒りに燃えたそうだ。味方が後ろから銃口を突き付けたようなものだからだ。むしろトランプさんが目の敵にしているCNNやニューヨークタイムスは抑制的な報道に終始してきたように見えた。

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(タイ時間6日午後11時30分の時点のCNNウエブサイトより)

さて、今回の選挙では「郵便投票」がカギを握っていることは確かなようだ。僕はこの制度のことを今までまったく知らなかった。トランプさんが繰り返し繰り返し「郵便投票で不正が行われている」と主張するので、僕はてっきりトランプさんを追い落とすために誰かが企んだ制度なのかと思ったくらいだ。

それは冗談だが、今回郵便投票が前回の2016年の大統領選挙より4倍も増え、郵便投票用紙の請求件数が9000万件ほどに達した(有権者が自分で投票用紙を請求しなければ郵便投票はできない)。これは明らかに新型コロナウイルスの蔓延が理由だと思われるが、そうだとすると、トランプさんは新型コロナウイルスに二重に足を引っ張られたことになる。いや、本人も感染したから三重苦とも言えるかな。

確かにこの郵便投票の制度は州によって締切日が異なるなど、連邦政府の大統領を選ぶ選挙のやり方としてはやや違和感があることは否めない。しかし、トランプさん自身が当選した前回の選挙でも同じように適用されていたわけだから、今さら「不正だ」と喚いてみても、負け犬の遠吠えにしか聞こえない。選挙の制度に問題があるというなら、前回その制度の下で当選した自分自身の大統領職の正当性を否定することになる。まさに“天に唾する”発言だ。

トランプさんは余程大統領職に未練があるらしく、既にいくつもの訴訟を起こしている。それによって、結果が正式に決まるまではかなり時間がかかるかもしれない。しかし、残った激戦州では今も郵便投票分の開票作業が続けられているので、間もなくバイデンさんが勝利宣言することになるだろう。

イギリスなどヨーロッパのメディアの多くは、トランプさんの発言を出鱈目で民主主義の根幹を台無しにするものだとして厳しく批判している。日本のメディアはそこまでトランプさんを断罪する勇気も見識も持ち合わせていないかのようだ。何しろ、ついこの間まで、トランプさんの“お友達”が首相をしていた国だから已むを得ないのかな?

それはともかく、トランプさんは本気でアメリカ合衆国をぶっ潰すつもりだったのかもしれない。「分断」という言葉はトランプさんが大統領になったことによって俄かに使われ始めた言葉だ。何でもかんでもぶっ潰せばいいというものではない。

それにしても、トランプさんは確かにアメリカ合衆国国民によって選ばれた大統領だった。民主主義をぶち壊しかねない人物が大統領に当選してしまう国がアメリカだとすると、民主主義というものに価値を置く立場からすると、その社会の病根は相当に深いのかもしれない。「トランプ現象」とまで言われた強権政治への傾斜はこの数年の間に世界の政治潮流にまでなってしまった。日本も、民主主義を軽んじる国になってしまったような危機感を覚える。それとも日本の民主主義はもともと名ばかりなのだろうか?僕の錯覚であってほしいと願う。

「民主主義とは少数意見の尊重である」と子供の頃に学校で教わった。もちろん調整が付かなければ、最後は多数決で決めるのだが、数だけで押し切るのが民主主義の本質ではない。そして、権力をかさに着て問答無用とするのは民主主義からとても遠いことは間違いないだろう。

(11月6日、11時45分)

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もう一つの懸念

アメリカの大統領選挙の帰趨は誰の目にも見えている。ただ、トランプさんが最後の粘りを見せて法廷闘争に持ち込み始めているので、最終的な決着までに少し時間がかかりそうだというのが大方の見方だ。

もし仮に、あくまでも仮にだが、「3日の消印のある郵便投票が6日中に届けば有効」としているペンシルベニア州について、3日を過ぎて届いたものは無効とされたとしよう。無効と決定するのは連邦最高裁判所だ。87歳で亡くなったリベラル派の女性判事のギンズバークさんの後任として、つい先月、保守派と言われているエイミー・バレットさんが就任した。それによって連邦最高裁は保守派がこれまで以上に多数を占めることとなった。だから、ペンシルベニア州の郵便投票の扱いは違法だと判断される可能性はある。

では、ペンシルベニアでも他の州と同じように、3日以降に届いた郵便投票が無効とされたとして、ペンシルベニア州の勝敗が変わるかどうか・・・それは今のところ分からないとしか言いようがない。3日以降の票を除外したとしても、バイデンさんが勝っているかもしれない。でもトランプさんが逆転するかもしれない。その可能性は少しだけあるだろう。

もし仮にトランプさんの言い分が認められ、さらに票を精査した結果、ペンシルベニア州でトランプさんが勝ったとしても、他の州はどうだろうか。目下のところ、ネバダ州とジョージア州でもバイデンさんが僅差ながらリードしている。両方、あるいはどちらかの州でバイデンさんが勝利する可能性は非常に高い。その場合、バイデンさんの選挙人獲得数は過半数の270人以上となるので、バイデンさんの大統領選勝利となる。ペンシルべニア州の帰趨がどうであれ、バイデンさんは勝利宣言するだろうと思う。

問題はその後である。これがトランプさんという極めて特殊な人間でなければ、あっさりと敗北宣言して、直ちに平和裏に政権の移行プロセスに入っていくだろう。そして来年の1月20日には新大統領が誕生することになるはずだ。

懸念とは、開票結果がすべて決着した後でもトランプさんが抵抗する可能性である。その場合もいろいろな屁理屈を付けて裁判を起こす可能性があるし、それ以上に物理的な抵抗を試みる可能性もある。これはアメリカのメディアではとっくに指摘されてきたことであり、バイデン陣営でもその場合の対処法について、さまざまな角度から検討されてきた。それはトランプさんがホワイトハウスを明け渡さないという事態である。

バイデンさんは、もしそうした事態になれば、州兵にエスコートさせてトランプさんにホワイトハウスからご退場願うと以前に発言したことがある。それは末代まで語り継がれる、とんでもない醜聞の主人公をトランプさんが演じることになるのは明らかである。バイデンさんにしても、そのような事態はなんとしてでも避けたいだろう。

しかし僕は、そんなことよりも心配していることが一つある。それはトランプさんお得意の出鱈目情報を発信し続けて、熱狂的なトランプ信者を煽りに煽ってアメリカ国内で暴動が起きてしまうことである。もしそのような事態になれば、アメリカ合衆国の歴史において、とんでもない汚点を残してしまうことになる。それはトランプという一人の“変わり者”の問題ではなくなり、合衆国自体が本当の意味で分断されてしまうことになる。そうなった時の国際社会へ与える影響は計り知れないものとなる。もちろん日本も無関係ではなくなる。

そうなってしまう前の安全装置は、もちろんいくらでもある。まず第一に、トランプさんが使っているツイッター等からの情報発信を遮断してしまうことである。法的に、あるいはツイッター等の規則がどうなっているのかは知らないが、きわめて危険な発言を野放しにするようにはなっていないはずだ。これまでは「警告」で済んでいたが、さらに次の段階へとすすめていくことが可能だろう。

テレビや新聞などのメディアはどう対応するだろうか?一部の新聞はトランプの言い分をそのまま掲載し続けるかもしれない。しかし、FOXを含むテレビメディアは、暴動を煽るような発言を直接電波に乗せてしまうことはないだろう。あるいは一部の発言を伝えるとしても、それに対する批判をきちんと報道するだろう。そうすることによって、逆にトランプ信者を逆撫でして暴力を誘発するかもしれない。それはメディアというよりも、アメリカ国民の選択である。“トランプ原理主義”に酔っている国民も多数存在するので危ないだろうとは思う。

一番良い解決策は、トランプさんが正気になることである。それは言うまでもない。アメリカ合衆国国民の半数近くの支持を集め、少なくとも4年間、世界最強国家の大統領を務めた男である。そうした過去にプライドを持ってもらいたい。大統領職を離れれば、たくさんの裁判が待ち受けているし、下手をすると刑事責任を問われる事態もありうるかもしれない。それでも、アメリカ国民ばかりか世界を巻き添えにして自滅することだけはやめてもらいたい。正気になってもらいたい。

(11月7日、12時)

バイデンさん、おめでとう!

今回の大統領選は「トランプか、反トランプか」という選挙だと言われていた。結果は「反トランプ」が勝った。僕もトランプという人物が大嫌いだったから、ちょっとだけ胸をなでおろした。

獲得選挙人の数が過半数の270人をすでに20人上回っている。さらに300人を超えそうだから、不届きな選挙人の造反があっても心配はない数に達していると言える。そしてアメリカの裁判所は、根拠のない訴えを時間をかけて審理するほど暇ではないと思う。門前払いか、それとも期限までに常識的な結論を出すことは99%以上確実だと思う。アメリカのメディアもそれに疑いを差し挟むところは見当たらない。あとはトランプさん個人の挙動の問題だけが残る。

民主党とか共和党とか、僕にとっては何の関係もないが・・・とにかくバイデンさん、おめでとう。若い頃に仕事で何度か足を運んだアメリカ合衆国。世界最悪のコロナ禍が落ち着き、全世界の平和に少しでも貢献するアメリカであってほしいという願いを込めて、バイデンさん、おめでとう!!!

(11月8日、10時15分)



昨日の食卓

またまたカレーが食べたくなった。お昼にCOCO壱番屋へ直行した。もっと近いところでもいいか、と一瞬思ったが、あそこの味が僕には合っているから車で30分かけて行った。

昨日も写真を撮り忘れたことに食べ終わってから気づいた。写真はどんなカレーでも同じに見えるから、まあいいか。強いて言えば、いつもと違って、辛さのレベルを引き上げた。12倍の辛さにしてみた。

出てくるまでは少し不安だった。一口食べてみたら、楽勝だと言うことが分かった。辛さに備えて、ご飯を多めに頼んだから、お腹いっぱいになった。追加のご飯が120グラムで30バーツというのは日本なら相場だけど、タイでは高すぎる。でも、まあいいか。

夕方、2日連続でジムに行った。館内の掃除を担当している女の子が可愛いので、いつも目を合わせる。だいたいニコっと反応してくれる。もう1か月以上前、犬に咬まれる前の日に、思い切って名前を聞いた。すごく恥ずかしそうにして教えてくれた。

それからだいぶ経ってから行ってみたら、僕の顔を見て、はじめてワイをしてくれた。昨日は、「元気かい?」と聞いたら、また恥ずかしそうにして、こっくりと頷いた。歳の頃は24、5だろうか。見ていると、毎日すごく丁寧に、隅から隅まで手抜きせずに掃除する。きっといい子だろう。まあ、運動しながら鑑賞するだけにしておこうか。

家に帰ってきてすることは犬3匹の餌やりと、親のレックレック1匹だけの散歩だ。子犬2匹は外には連れ出さない。僕が近所の犬に咬まれてから、なぜか子犬も外に出たがらない。もっぱら庭で遊んでいる。

さて昨日の夕食。昼間カレーをたっぷり食べたので、サラダとビールだけにしようと思ったのだが、3日前に買った豚肉がまだ残っていたので、この際始末することにした。

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昼にとんかつ、夜にステーキ。いくら何でも豚肉を食べ過ぎている気がしないでもない。そう言えば、牛肉はもう1年以上食べていない。

同居人の彼女は11時頃にGrabタクシーで帰ってきた。タクシー代を除いた昨日の稼ぎは500バーツほど。僕のスマホを使って彼女の口座に振り込んであげた。僕の財布に500バーツが入り、僕の口座から500バーツが彼女の口座に移動した。いつもこのようにしている。

(11月10日、9時50分)

今日はイイ日

11月11日は何かといいことがある日に違いない。「何かといい」とか言っても、思い当たるのは今のところ一つだけだが。今日一日だけ、いつも通っているフィットネスクラブの特別プロモーションの日なのである。

普段なら1か月1,300バーツのところが990バーツになる。1年前払いだと9,900バーツ。1か月あたり825バーツにディスカウントされるから、月にすると500バーツほどの節約ができる。

でも待てよ。もしフィットネスクラブが明日倒産でもしたら、払った1万バーツは瞬時にしてパーになることは覚悟しなければならない。もしタイでもコロナが再び鎌首をもたげて、前と同じように政府の命令によって長期間閉鎖されたらどうなるのだろうか?などと邪念も湧いてくる。

1000バーツならいいけど、なぜか1万バーツとなると少しは立ち止まる。それが人間心理というものだ。大抵の人は倒産なんかするわけがないと思い込んで失敗することもある。旅行代理店が倒産して予約していた旅行が霧消した人がいる。英会話学校の倒産で1年分の授業料が紙くずに化けた人がいる。まあしかし、フィットネスクラブが倒産した場合は、近所を走って家で腕立て伏せでもしていればいい。

しかしだ。1年間に1万バーツポッキリはお得だと言って、頻繁にジムに通う人生を想像してみる。そうすると、かなり滑稽な図が見える。健康のため?体型維持のため?それとも時間潰し?

たとえば健康のためとして、では何のために健康でありたいのか?いい仕事をするためとか、家族を幸せにするためというなら、常識人であれば少しは理解できる。でも単に健康に生きるためと言うのなら、生きている意味がどこにあるのか見えにくい。

それで結論。要するに、有り余る暇な時間をどうやって潰すのかという問題だと気が付く。ゴルフでもいい、囲碁将棋でもいい、読書でもいい、左巻き、あるいはネトウヨ丸出しのブログを毎日書いてもいい。ブログと言えばお勤めのことを書くバカになってもいい。それより、お勤めそのもので時間を使うほうがいい?いやいや、若い頃のように5分か10分で終わることはなくても、お勤めそのものはそれほど時間を消費しないので、暇潰しには向いていない。

ということで、先立つものと消費時間との兼ね合いで言うと、適度のジム通いはかなりいい線をいくと思う。僕的に言うと、家での読書と合わせ技にすると、有益かどうかは別にして、時間潰しの方法としてはベストマッチのような気がする。たまには映画や人気アニメをyoutubeで見るのも、またよしである。お金を使えるのであれば、旅行もいい。お寺巡りは・・・パスかな。

敢えてもうひとつ時間を潰す方法の有力候補をあげるとすると、それは老いらくの恋である。恋と言うからには、“お勤め”にならない範囲で足踏みしている状態がベスト。先へ進もうかな?それとも今なら引き返せるかな?そういう状態は、いつでもお勤めができる安定した境遇よりもワクワクした時間を過ごせることは請け合いだ。それは老若男女に関係ない真実だと思う。

ではどうすれば外国でそういうことができるのかって?それは嘘でもいいから自分に自信をもつことと(容姿はほとんど関係ない)、少しでも相手に通じる言葉を磨くことだ。先立つもの?それはその時になってからの話だ。

(11月11日、9時20分)

僕の故郷

正直に言うと、毎日のようにブログを書いていてもつまらない。単に時間潰しで作文の作業をしているだけのように感じられる。前のように文章に性器が、いや精気がなくなっているように自覚している。

タイへ移住してから前の家族と一緒に暮らした5年間は、チェンマイで出会うあらゆるものが新鮮だった。亡くなった妻や3人の子どもたちとの生活は凹凸に富んでいて、書く材料に事欠かなかった。何よりも、自分と家族のために乳がんと闘っていた妻との時間は、楽園の中で瑞々しく輝いて花開く可憐な植物のように、儚くはあったが命をふるわせる、かけがいのない時間だった。

今はなぜ面白くないのか?ひとつは余りの変化のなさが原因かもしれない。40近く歳の差のある彼女との関係は、時には長く連れ添った夫婦のようでもあり、たまに親子のようでもあり、単なる同居人同士のようでもある。言えることは、愛おしく思う時間よりも、愛想をつかしている時間が勝っているということ。相変わらず自分が彼女のATMに過ぎないようにも思われて、「もうたくさん」と感じることの方が多い。

家でも外でも、ときどき一緒に食事をすることはある。それとても殆ど会話がない。彼女はスマホを片時も手放さず、何か話しかけても、たいていは意味のない雑音が聞こえているような風情だ。寝室は別々だから、肌を寄せ合って親密な会話をすることも久しくない。あるとすれば、彼女がお金を欲しがっている時だけだ。

お勤めに励むことは頻繁にある。それが最も親密な彼女とのコミュニケーションだ。しかし、それとても殆ど無言の行為で、あまりにも変化がない。生殖のためではないという一点を除いて、動物の性行為と何ら変わらないのではないかと思える。僕にとっては性的欲望の発露だから飽きることはないが、そこから先が何も見えない。

今日はなぜこのような書き出しになっているのかと言うと、今朝、突然に自分の過去を書いてみようかという気になった。なぜ、そのような考えが突拍子もなく浮かんだのか考えているうちに、ハタと気が付いたのだ。今の自分はひょっとして本当の自分ではないのではないか?もちろん今も過去も、そして未来も自分ではある。でも何かが違う。

誰かが言ったように、人間は何処から来て、何処へ向かおうとしているのか?人間を自分に置き換えてみたい。自分は何処から来て、何処へ行くのか?それが知りたい。そのために自分の生きてきた時間をトレースしてみたい。そして時間潰しの作業ではない文章を書いてみたい。もう絶対に戻ることのない過去の庭に水をやり、肥料をすこし撒いて様子を見てみよう。ひょっとして小さな芽が出て、やがて花が咲き、もう何もないように見えた庭が楽園に変わるかもしれない。その庭の中で遊んでみよう。そうだ、いつも楽園はどこか外に存在すると思っていたのが間違いかもしれない。

あまりにも前置きが長くなりそうなので、今日はこの辺にしておこう。明日の朝も同じ気持ちだったら、自分の生まれ故郷の話から始めようと思う。長い物語の始まりになるのかもしれない。

(11月12日、9時40分)

一人で過ごした夏休み

昨日予告したように、僕の故郷のことからボチボチ書き始めよう。


京都府綾部市。そこが僕の生まれた故郷である。家族はその頃京都市に住んでいて、昭和26年の春、母は実家のある綾部に帰って僕を産んだ。綾部は元々は繊維産業が盛んな土地柄で、下着のグンゼを生んでいる。現在の人口は3万5000人余り。年々減少傾向にある典型的な地方の小都市だ。

僕は小さいとき、夏になると必ず綾部に行った。京都市の北にある綾部へは山陰本線で、当時は2時間余りかかった。考えてみればそれほど遠くではなく、今なら1時間ちょっとのところだ。ポッポーっと、大型犬の低い遠吠えを拡声したような汽笛を鳴らして走る蒸気機関車がほとんどだったが、たまにポワーンというやや高い金属的な音を出すディーゼル機関車もあった。山陰本線が完全に電化されたのは、僕がもう故郷へ行くことがなくなってからだった。

小学生の頃の一番の楽しみは、夏休みの間、ほとんどの時間をその綾部で過ごすことだった。3人兄弟の末っ子に生まれた僕は、いつも母に連れられて4つ年上の兄と、2つ年上の姉と一緒に綾部に行くのだが、彼らは数日するとなぜか僕一人だけを残して京都に帰った。いつもそうだった。そして夏休みの終わりが近づいてくると僕は一人で京都に戻るのだった。

どうして僕だけが綾部に残されることになったのか、その理由ははっきりしないが、おそらく僕が強情に「ずっとここに居たい」と言い張ったからではないかと思う。「僕はおばあちゃんの子供になりたい」と駄々をこねた記憶がある。祖母には7人の子供があり、母は末っ子だった。孫の中では僕が一番小さかった。そのせいか僕にはとびきり優しくしてくれた。でも、自分が祖母の子供になりたいと言った本当の理由は別にあった。夏休みをほとんど母の実家で過ごした僕がしていたことは、来る日も来る日も虫を取ることだった。虫といっても蝶やトンボには見向きもせず、ひたすら一人きりでセミ取りとクワガタ取りに明け暮れた。子供の頃のライフワークだったのだ。あの頃の体験が、社会人になってからもよく“一匹狼”と言われたその後の僕の原点になったような気がする。

朝6時半も過ぎると、決まって近所でクマゼミがシャーシャーシャーと啼き始める。個体数は決して多くはないと思われるのだが、一匹が次から次へと低い木を飛び渡る。メスを誘っているのだ。その音が耳に入るやいなや、やけに長い竹竿の先に虫取り網をくくりつけた特殊兵器を持って、クマゼミの啼いている木に駆け付けるのだ。それがクマゼミが啼きやむ10時頃まで続く。その間、朝ご飯を食べていたのかどうか、まったく記憶にない。日本のセミの中で一番大きくて、羽は透明で体の真っ黒なクマゼミが一番好きだった。クマゼミが啼かない昼の時間はアブラゼミやミンミンゼミを狙った。たまには庭にある桜の大木で昼寝しているクマゼミを仕留めることもあった。

7月末から8月の終わり頃まで綾部で見られるセミは、ほとんど全部の種類を小学校に入る前に取っていた。ニイニイゼミ、アブラゼミ、クマゼミ、ミンミンゼミ、ヒグラシ、ツクツクボウシ。そして綾部でセミ取り修行をした僕は、3年生か4年生の時に京都でハルゼミとチッチゼミを取り、京都の平地にはいないエゾゼミやヒメハルゼミを除いて、本州で取れるセミを制覇した。

とくにチッチゼミは体の長さが2センチほどの日本で一番小さなセミで、普通の人には啼き声を聞いても、それがセミだとは認識できないだろう。ちょっとした山に入ると、松林などでチッチッチと啼いている。でもどの木にいるのかさっぱり分からない不思議な音だ。僕はそのセミを何年もかけて追い続け、ついに京都の自宅近くの林の中で捕まえたときの感激は今でも忘れられない。近くで遊んでいた年上の子に「ついにチッチゼミ、つかまえた!」と興奮のあまりに声に出したら、僕の手の中にある小さなセミを見た彼らは「長いことその辺におって、こんなちっちゃいセミがたった一匹やんか」と馬鹿にしたように言った。「あんたらは何も知らへんのや。これ簡単に取れるセミとちやうんやで」と、もう少しで口に出しそうになって押しとどめた。

子供の頃のセミ取り癖は、実は大人になってからも衰えてはいない。どこかでセミの啼き声がすると、半ば本能的にその方向に近寄って姿を探してしまう。そしてたいていすぐに見つける。今でもそうだ。社会人になってからでも、仕事の途中でもセミに出会うと、素手でクマゼミやミンミンゼミを取ったことは何度かある。もちろん取ったらすぐに逃がす。低学年の頃はナフタリンの毒瓶に入れて殺し標本にしたこともあるが、だんだん可哀そうに思えてきてやめた。それからは翌日まで籠に入れて手なづけてから逃がすようになった。チェンマイに来てからでも、啼き方は違うが姿が日本のクマゼミにそっくりのセミを自宅で捕まえたことがある。山で別の種類のセミを手づかみしたことは何度もある。ただ、沖縄は別として、日本に生息するセミの中でエゾゼミだけは、いまだに手にしたことがない。北海道にいるとき、啼き声はいやというほど聞いて、姿は何度か目にしているのだが。


母の実家は山陰線の綾部駅から500メートルほど南側にあった。駅前の通りをまっすぐ抜けると、山が迫ってきて、そこに通じる細くて舗装をしていない私道を上った小高い場所に母の実家があった。その坂道も含めて、周囲の土地は祖父の土地だった。広さはハッキリ聞いたわけではないが、1,000坪以上あったと思う。その中を近所の人も、見知らぬ人も通っていた。もちろん柵も塀も何もなく、土地はいつも開放されていたからだ。中にはかなり広い畑もあって、ナスやトマトはそこから取って食べていた。近所の人も勝手に取っていた。夏休み中は、たまに鍬を持って僕も畑を耕したことがあった。小さい子供にとっては道具が重いのと、使い込んだ鍬の先の鉄がスポンと抜けることがよくあって、あまり好きではなかった。80歳くらいになっていた祖母は布巾を頭にかぶり、曲がった腰でその重い鍬を自在に降り下ろしていた。

祖父は綾部の名士だった。元々は農業技術者で、地元に村上農園を開いたことでその名前が知られるようになった。そのあと、戦前のことだが、京都府会議員を経て衆議院議員になった。所属していたのは現在の自由民主党ができる前の民主党の又その前身の政党で、当時最右翼とも言われた保守政党だった。途中1回落選し、都合6回当選している。戦後は公職追放となり、政界に復帰することはなかった。何回目の選挙のことかは分からないが、全国一の得票数で当選したというのが母の自慢だった。結局大臣にはならず、農林政務次官までだったらしい。晩年は脳卒中の後遺症で寝たきりになり、僕が6歳のとき、昭和32年に81歳で他界した。葬式には家族全員で綾部に行った。総理大臣(当時は岸信介)が葬儀に来ると言う噂が小さい僕の耳にも入ってきたが、結局来なくてがっかりした記憶がある。

祖父の言葉で耳に残っているのはたったのひとつだけだ。僕の母に向かって「弥生の作るカレーは一番おいしい」と言ったその一言だけ強烈に映像付きで覚えている。後遺症のせいか顔の表情がいつもこわばっているように見えて、孫からするととても怖かった。でもその時だけは、優しそうな顔に見えた。直接話をしたことがあるのかどうか、おそらくなかったのではないかと思う。夏の間は暫く同じ屋根の下で過ごしていたはずだが、その記憶はあまりない。

実家から市内の目抜き通りを1キロほど東に行くと、市街地の外れに一級河川の由良川が流れている。そこは並松(なんまつ)と言う場所で、夏は花火大会があって母の実家からもよく見えた。ちょっと変な話に聞こえるが、小学校の低学年なのにたった一人で由良川へ水遊びに行き、後で知った祖母に「あそこはたいそう流れが速いんだよ」と叱られたことがあった。川に入っているのは、夏休みだというのに自分一人だけだった。川の底の砂利の感触と、泳いでいる小さな魚の群れの姿を不思議に今でも覚えている。浅瀬からちょっと中に入ると、確かに流れは見た目以上に速かった。

由良川に架かる橋を渡った対岸には紫水ヶ丘という小高い丘がある。よく整備されてはいるがそれほど広いとは言えない公園があって、そこに祖父の銅像が建っていた。今でもあるのかどうか、祖母が亡くなってからもう半世紀以上、一度も綾部に行ったことがないのでよく分からない。(つづく)

(11月13日、9時)

過去の記憶はどのように甦るのか

昨日の朝、2時間ほどかけて自分の生まれ故郷の綾部のことを少し書いた。おそらく、綾部で過ごした夏休みの記憶(エピソード記憶)の何百分の1、何千分の1を取り出したに過ぎないと思う。今は記憶として自覚できない過去の出来事も、きっと脳の中の記憶装置に仕舞い込まれていて、何かの拍子に意識の世界に躍り出てくることがあるに違いない。それが分かったのは、これまで一度も思い出したことのない、由良川に一人で水遊びに行った出来事がまさにビジュアルに想起されたときだ。

ところが、なぜ一人で川に遊びに行こうとしたのか、それはまったく思い出せない。つまり、人間の行動の動機というものは、「映像と音声」を伴うことがめったにないので残りにくいのではないか。だから最初に思い出したのは川底の砂利と小さな魚の群れを見たことだった。そしてちょっと時間が経つと、と言ってもおそらく十秒くらい後だが、河原に数人の人間がいたこと、けれどもその中の誰も川の中には入っていなかったことが映像の記憶として残っていた。これは単なる想像だが、おそらく僕は「河原に人がいるから、一人で水に入ってもし何かあったら、きっと助けてくれるだろう」と思ったに違いない。僕はその頃までに家族で海水浴に行ったことはあったし、学校でプールに行ったこともあったが、当時はほとんど泳げなかったのだ。僕は子供のころから今に至るまで、何事につけ警戒心が強い。だから河原に人がいる映像が、言ってみれば「川に入る安全装置」として記憶に保存されていたのであろう。

では由良川へ一人で行ったことがほんとうに事実だったのか?それとも単に夢の中の出来事にすぎないのか?そういう疑問はあっても不思議ではない。小学校低学年の子供が一人で大きな川へ水遊びに行くなどということは、そこに住んでいて、その川に親しんでいる子ならあり得るかもしれない。しかし、いくら生まれ故郷だからと言って、普段はそこにいない子供が、しかも初めて、ましてや殆ど泳げないのに、一人っきりで流れの速い水に入るなどということは普通はないことのような気がする。行くとしても家族連れか、せいぜい友達同士で行くのが自然だ。そこのところが自分らしいと言えば自分らしいなあと、一匹狼の僕は思うのだが、この記憶が事実だと判定できたのはなぜだろうか。

鍵は、僕が川から戻った後の祖母の言動と、その言葉を発したときの祖母の顔が同時に思い出されたということだ。つまり、過去の映像と音声が保存されているかどうか。実を言うと、昨日の記事には嘘がある。どこが嘘かと言うと、祖母が「あそこはたいそう流れが速いんだよ」と言ったという部分だ。あの部分だけは事実ではない。なぜ嘘だと分かっていることを書いたのか。それは辻褄合わせのためである。実際に祖母が発した言葉はハッキリ思い出された。「案じておったんだよ」という言葉だ。100%間違いない。しかも、寿命が縮まりそうなくらい心配していたんだよ、という顔つきで言った。そして、「案じていた」のが事実であれば、祖母は僕が川へ行ったことを知っていたことになるなあ、と僕は書いていて思った。もしそうなら、8歳くらいの子供が一人で、しかも由良川という大きな川へ水遊びに行くことは、大人は普通は止めるだろう。そこが謎だった。だから辻褄合わせのために、僕が祖母に黙って川へ行ったことにしようと思ったのだ。しかし、今日また考え直してみると、僕が家を出たきり2時間も3時間も帰って来ないので、「あの子は一体どこへ行ったんだろう?」と案じていたのかもしれないということに思い当たった。つまり、川へ行ったことを知らなくても、祖母は案じることができたのである。そのとき僕は「川へ一人で遊びに行ってた」と正直に言ったのかどうか、それはまったく記憶にない。「案じておったんだよ」という祖母の一言で、このエピソードは少なくとも僕の記憶の中では、終わっているのだ。

ことほど左様に、人間の記憶というものは断片的だ。長い時間の連続を記憶していることはまずない。短いエピソードとして覚えているに過ぎない。あるいは、もし時間的に長い記憶があったとしても、途中何か所も飛んでいるはずだ。シームレスに再生することは不可能だ。つまり、一つ一つの記憶の容量は小さい。だから一つの出来事について、一見辻褄の合いそうにない記憶もあるのかもしれない。もしそうだとすると、犯罪の嫌疑をかけられた容疑者の取り調べで供述が変遷したとしても、あるいは裁判の中での証言が変わっていったとしても、検事や裁判官が思い込んでいるほどには「嘘を言っている」と決めつけることはできないように思える。供述が変遷したとしても、意図的にやっているのではなく、記憶自体の定着度の問題かもしれないし、矛盾する記憶だってあり得るのではないか。

法曹界の人からすると「お前は何を馬鹿なことを言ってるんだ。供述が変遷すれば、供述が信用できないというのは常識だ」と反論されるだろう。そう言われれば、確かに信用できないかもしれない。でも本人は一生懸命ほんとうのことを思い出そうとするからこそ、意に反して供述が変遷してしまうのかもしれない。むしろ検事が取り調べで自分の都合のよいように辻褄合わせを要求すること自体の方が問題なのだ。よく言われるように、検事が犯罪行為の動機を含めたストーリーをあらかじめ作っておいて、それに合うように被疑者に供述させるということは、人間の記憶の曖昧さを利用した狡猾な罠だとも言える。とくに「動機」に関して人間の記憶が明確ではないことがあるだろう。動機とは、僕に言わせれば自分ではなく「他者の行為」を合理的に納得するための、ひとつの論理だてに過ぎない。犯罪に関しての動機は証拠立てが難しいことが多いから、ついつい本人の供述に頼るのだろう。だから、客観的な証拠がない場合は絶対に被疑者を有罪にしてはならない。

話が故郷の記憶からあらぬ方向へ完全に脱線したようだ。止まらなくなる前に、今日はこの辺にしておこう。話の辻褄は合っているだろうか?

(11月14日、10時25分)

突然の発病

もう少し小学生の頃のエピソードを書いておこう。

僕は大きな病気をしたことがないし、40代になってから鼻の蓄膿症の手術を受けた以外は入院もない。小学校2年生の冬、不意に襲ってきた病気をのぞいては。前触れがあったのかどうかよく覚えていないが、おそらく発熱したのだと思う。たまに風邪を引いたときに診てもらう内科・小児科の開業医の石原先生が往診に来てくれた。当時は京都市内は北区の衣笠というところに住んでいた。正確な住所は等持院北町。市内から渡月橋で知られる観光地の嵐山(あらしやま)に通じる京福電鉄嵐山線、通称嵐電(らんでん)の等持院駅に近かった。石原先生は一人で自転車に乗ってやってきた。

岡山県の農家の長男として生まれた父は、大阪にある大学の農学部を卒業して、ある製薬会社に就職した。ところが熱烈な恋愛劇の末に政治家の娘と結婚し、その父親(つまり僕の祖父)のたくらみで京都府の農業関係の団体の職員になった。父は獣医師の資格も持っていたので、僕はてっきり牛や馬などの家畜の関係の仕事をしていると思っていたのだが、実はお金を勘定する事務員だった。結局重要なポストに就くこともなく、言ってみれば万年係長のような存在だった(と思う)。父の同僚か部下かは知らないが、夜酔っ払って我が家に遊びに来ると、いつまでたっても父を「係長、係長」と呼んでいたので、僕は今でもそう信じている。その父が住宅金融公庫からお金を借りて衣笠に小さな建売住宅を買った。庭だけは今にして思えば結構広かったが、家自体は6畳の洋間がひとつ、6畳と4畳半の二間続きの和室、それに3畳くらいの狭い台所があるだけの平屋だった。庭に2本か3本の木があって、夏にセミが飛んで来て啼きはじめると、例によって部屋から飛び出していくのは綾部にいる時と変わらなかった。

僕はその6畳の和室に安静にして寝ていた。往診してきた石原先生は血液や尿の検査をした。そして目の前で血圧を測った。

「ボクは血圧が170もあるね。これ、70歳のお爺さんくらいの血圧なんだよ」

石原先生が声に出した「170」という数字を鮮明に覚えている。そしてもうひとつ「70」だ。「僕はお爺さんと同じくらいの血圧」と頭の中で復唱した。低学年の子供にしては、僕は結構いろいろなことを知っていたから、血圧の意味もちゃんと理解できた。だから驚いた。7歳の子供が70歳のお爺さんと同じと言われたら、それは誰だってびっくりする。どう考えても異常値だ。顔や足が確かにむくんでいて、尿の出も悪かった。石原先生は尿の検査結果と合わせて、その日のうちに診断を下した。腎臓の病気である。これを間違えるようなら、最早医者ではなかろう。実は母は石原先生を藪医者だと思っていたフシもある。でもその疑いは消し飛んだ。その後僕は麻疹やおたふくかぜに罹ったが、診てくれたのはいつも石原先生で、いつも適切な治療をしてくれた。ただ、あとで母に何という名前の腎臓病か尋ねたら、ただ「腎臓」としか言わなかった。「腎臓」という病気なんてあるのだろうか?それはないだろう。おかしいなと思ったが、母を追及してもしょうがないので病名の探索はあきらめた。今ならネットで検索して「ネフローゼ」という単語にすぐ突き当たるだろう。

母は3人きょうだいの末っ子に生まれた僕のことを「あんたは、いらん子や」と、面と向かって言うことがあった。男と女の2人の子に恵まれたのでもう十分と考えていたらしい。僕をお腹の中に宿したときは「もう子供はいらんのに、困った」と本当に思ったらしい。ところが生まれてみると案外に可愛かった(らしい)。「あんたは、いらん子や」と口では言っても、顔が笑っている。末っ子は何かと得をするものらしい。僕が駄々をこねると、多少時間がかかっても、大概のものは買ってくれた。兄と姉に妬まれた。3人のきょうだいの中では、母は僕のことを一番愛してくれている、と勝手に思っても無理はない。ところが、その一番大事なはずの子が腎臓病だ。下手をすると、一生治らないかもしれない。でも母は、心配な素振りを何一つ見せずに明るく振る舞い、「いらん子」のために石原先生の指示を忠実に守った。すぐに無塩パン、無塩バター、無塩醤油をどこからか買ってきた。減塩醤油ではなく、無塩醤油だ。そんなものがあるのかと僕は不思議だった。塩分のない醤油ってどうやって作るんだろうか?どんな味がするのだろうか?早速ほうれん草のおひたしにかけてみると、それはそれは不味かった。醤油の味とはとても思えなかったのだ。母はその無塩醤油を使って、僕だけのためにいろいろなおかずを作ってくれたのだと思うが、不味いものはあまり記憶に残らないらしい。ほうれん草のおひたし以外は何も覚えていない。

僕の前では不安そうな顔を見せなかった母だったが、本当はとても心配していたことがわかるエピソードがある。同じ京都に住んでいた遠い親戚に、キリスト教の熱心な信者の人がいて、その人の勧めで教会の牧師さんに僕の病気が治るように祈ってもらったのだ。そのキリスト教会に、両親ともに僕の病気がキッカケで通うようになり、ついには子供の僕まで洗礼を受けることになってしまった。母は牧師さんの祈祷のお陰で腎臓病が治ったと、心底信じたのかもしれない。ある日、母がビニール袋に入った白いハンカチを僕の寝ている枕元に持ってきた。そのハンカチには「上」という文字がうっすらと鉛筆書きされていた。つまり、そちらを上にして枕元に置いておけという意味だ。牧師が右手か左手か知らないが、手を置いて癒しを祈ったハンカチで病気が治れば医者も薬もいらない。でも、困った時の神頼みは誰にでもあるのだということを、僕はその時に学んだ。

石原先生の指示通りに塩分抜きの食事に切り替えてから1か月か1か月半が経ったと思う。尿の蛋白は急激に減って、高かった血圧も子供並みの数値に収まってきた。その間学校を休んでいた僕はいつも安静にできるわけはないので、一人で部屋の中で遊んだ。「犬人間」と自分で呼んでいた小さい縫いぐるみをたくさん持っていて、それを人間に見立てて勝手にストーリーを作って遊んだ。言ってみれば女の子のママゴトのようなものだ。たまに料理を作ることもあったかもしれないが、記憶にあるのは鉄道ごっこや戦争ごっこだ。即興でキャラクターに合わせた台詞を作って声に出して遊んだ。後日の事だが、3年生になっても「犬人間」を操る遊びをやめないので、ある日僕が学校に行っている間に、母は縫いぐるみを全部燃やしてしまった。何という親だろうかと、数日の間母親不信に陥ったが、僕も当時は根性が座っていたのか、縫いぐるみの代わりにそこら辺にあった小さな箱や木製の糸の巻き芯に顔を描いて、縫いぐるみの代わりにして遊んだ。さすがに母はゴミのような人形モドキは燃やす気にならなかったようだ。

結局僕は2年生の2学期の途中で病気になり、3学期になってから学校に復帰した。腎臓の病気にしては、えらく早かったようだ。その間、クラスのみんなが一人一人手紙を書いて届けてくれた。ほとんどは「早く治って出て来いよ」という類のものだったが、僕が仲良くしていた女の子のことを書いたのも混じっていて嬉しかった。「金田がまっとうるぞ」という文面だった。

ネフローゼという腎臓病は、今では副腎皮質ホルモンを適切に投与すれば完治することもある病気だと言われている。でも慢性化してしてしまうと厄介な病気であることに変わりはない。僕の場合は、塩分のほとんどない食事と安静によって事なきを得た。牧師さんの祈祷が効果があったのかどうか、それは僕には分からない。余りに短期間で治ったので、医者の誤診ではないかと疑う人もいたが、そうではない。あれから60年余り、尿の検査で蛋白が検出されたことは、ただの一度もない。きっと、母の祈りが功を奏したのだろう。

(11月16日、18時)

閑話

先日来、自分の子供の頃を思い出して文章を書き始めたのだが、脳の中に仕舞い込んであって、ひょっとして死ぬまで世に出てきそうになかったエピソードまで息を吹き返しそうだ。雑多な記憶が脈絡もなく蘇ってきて収拾がつかない。この先、いつまでたっても小学生から抜け出せないかもしれない。

ところで、ここからが閑話。「閑話」とは、「暇にまかせて話すこと」という意味らしいが、僕の場合は常に暇だから、このブログ自体が閑話とも言えるが、それはさておき・・・

今日のお昼前、彼女を職場に送っていく車中で、彼女は突然昨夜のことを話し始めた。概要はこうだ。昨夜9時半ごろ、彼女が働いているレストランに突然2台の警察車両がやってきた。中から総勢10人の警察官がぞろぞろと出てきた。拳銃を取り出して「手をあげろ!」とは言わなかったそうだが、店にいた客と従業員に「そのまま動かないで、じっとしていてください」とは言ったらしい。

もしここが日本で、不法滞在の外国人が働いているような店だったとしたら、入国管理局の係官が大挙してやってきて、全員に身分証明書かパスポートを見せろ、ということはあるだろう。でも、ここはタイだし、彼女の店に外国人はいない。察しのいい人は分かると思うが・・・そう、クスリのガサ入れだったのだ。チェンマイでもこれをやるのだ。10人も警官が来たということは、すでに目星がついていた、と考えた方がよさそうだ。つまりは、誰かのチクリかな。

そのとき店内には10数名の客がいたそうだ。従業員は彼女を入れて4~5人だろうか。警官がやったことは、まず所持品検査。女性は女性警官が調べるのだそうだ。その点は日本と同じで、当たり前と言えば当たり前。そうすると、何と男性客の一人からヤーバー(覚せい剤)が見つかったのだそうだ。ただし、たったの2錠。警官が10人もやってきて、たったの2錠を押収って、効率が悪そう。でも空振りでなく、2錠でも来た甲斐があったと警官たちは思ったかもしれない。その理由は後で分かる。

さてさて、お次は全員の尿検査だ。トイレは男女に分かれているから、男性には男性警官、女性には女性警官が付きっきりで採尿となる。これも当たり前。彼女も女性警官に連れられてトイレに入ったのだが、なかなか出なかった。それで放免となるほど甘いものではない。出るまで待つのだそうだ。彼女は昨日の朝、鎮痛解熱剤のパラセタモルを2錠飲んでいたので、少し心配になったらしい。でも鎮痛剤には反応しなかった。およそ20人の尿検査の結果は、2錠のヤーバーを所持していた男性を含め、男性2人と女性1人からヤーバーの反応が出た。試薬が紫色に変わればアウトなのだそうだ。

さて、ここからが問題。正解した人には彼女のお店にご招待して、ガサ入れを受けてもらおうか。

A 3人は抵抗しなかったので手錠は嵌められなかったが、ただちに警察署に連れて行かれた。

B 身分証明書(IDカード)を取り上げられ、書類にサインさせられた。そして明日警察署に出頭するように申し渡された。

C 誰も逮捕されなかった。



ヒント:ここはタイ



さて正解は・・・・


C


次の問題。もう察しの通り、3人は何かをして逮捕を免れたのであった。では一人いくらだったのか?

A 5000

B 1万

C 3万


ヒント: 3人とも、その場で財布から取り出したそうだ。


正解: 以下に述べる通り

実は亡くなった元妻の連れ子も捕まったことがある。5年ほど前、当時高校生だった長女は恋人の男性と一緒にヤーバーをやって一度だけ捕まったことがある。元妻が警察署に行くと、話を持ちかけられた。すべてなかったことにしてやると。その金額は、何と4万。しかも学生ではなかった恋人の男性は5万だったそうな。

そして去年。高校を中退して仕事をしていた18歳の男の子が捕まって留置されたことがある。ヤーバーではなく、7グラムの大麻を所持していた。放免の条件は1万だった。それにしても、大麻と覚せい剤が同じだなんて、ちょっと変だよな・・・

ということで、正解はBの1万。財布の中に1万以上が入っているということは、結構な金持ちの客なのかもしれない。どうりで彼女はしばしば500バーツ以上のチップを貰うことがある。僕は普段は財布に2000バーツも入れていればいい方だ。

それにしても、小遣い稼ぎのために10人も出動か・・・タイはやっぱりタイだな。

(11月17日、17時50分)

エンゲル係数上昇中

最近急に外食が増えてきた。理由は、彼女が仕事をサボることが多くなったから。久しぶりに仕事に行くと、突然警察のガサ入れがあったりするから、家で大人しくしている方がいいと思う。かと言って、家にいても料理を作ってくれることはめったにない。必然的に外に食べに行くことが多くなるわけだ。一例をご紹介しよう。どれも先週から今週にかけての一コマ。

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これは先週火曜日か?2人でイサーン料理のお店に久しぶりに行った。まだ別々に暮らしていたころ、よく行った店だ。食べさしで写っている魚料理はプラーカポンという名前の大きな魚の揚げ物。全部で5品ほどとビール2本飲んで700バーツくらいだったか。

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これは先週の金曜日かな?近所のタイ風しゃぶしゃぶの店。まだ料理が出てくる前の写真。食べたのは、豚肉、白身魚、魚の豆腐の3品。しゃぶしゃぶのスープはタイ風だから少し辛い。ビール2本と合わせて500バーツぴったり。経済的なお店だ。

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今週の日曜日。はじめて近所のコリアン料理の店に入った。本当は寿司屋へ行く予定だったが、お向かいに韓国料理の店があったので、試しにそちらを選んでみた。おかわり自由のブッフェ。やはりビールを2本飲んで、1000バーツでおつりがきた。

「今度は寿司屋にしようね」と言って、今日は彼女を職場に送って行った。「ダメよ。お金がもったいない」と彼女が言うので、それならば僕一人で行ってみよう。ということで、今日のお昼は一人で和食店へ繰り出した。

何処がいいか、それともまたCoCo壱番屋のカレーにするか、さんざん迷った挙句、まだ一度も行ったことのない「大和(やまと)」という店を選んだ。家から車で15分くらいのところにある。ブッフェ形式の店で、499バーツと699バーツの2種類の価格設定。ま、今回は安い方で。

食べるのに一生懸命で、写真のことはまったく頭から抜け落ちていた。で、食べたものを順番に書いておこう。

刺身盛り合わせ 1皿(マグロ、サーモン、しめ鯖、カニカマ、卵)
エビ天ぷら    1皿(3本)
マグロ刺身    1皿
しめ鯖握り    4個
炙りサーモン握り 4個
とんかつ      1皿
サーモンロール  1皿(6個)
しめ鯖刺身    1皿
大福もち      2個
抹茶        2杯

しめ鯖が多い。好きだからだ。最後にしめ鯖の刺身を追加したのがその証拠だ。鍋とか、ステーキとか、もっといろいろ頼んでもよかったが、せっかく寿司屋に来たのだからと思ってセーブした。699バーツ出すと、ハマチやウナギが食べられたようだが、200バーツをケチったから、刺身や寿司は選択の幅が小さい。

ところで、ここからが実は本題なのだ。食べている途中で、隣のテーブルに少しお年を召したタイ人女性2人が座った。若い子だったら、ときどき盗み見するところだが、まったく興味がなかったので、ひたすら食べることに集中していると・・・

「あっ!」と、そのうちの1人が僕に声をかけた。「ワタシのこと、覚えてますか?」

あらら、昔の恋人、ではない。亡くなった元妻の友達のTさんだった。以前は近所同士で、Tさんの相方は日本人だった。前立腺がんで亡くなったことは前のブログで書いた。ご本人のTさんは、一昨年日本旅行に行ったとき、くも膜下出血で倒れ、東京医科歯科大学病院に救急搬送されて手術を受けた。そのことは、2018年3月27日と28日のブログに書いた。Tさんの向かいに座っていたのは、その時一緒に日本旅行に行ったMさんだった。

Tさんは至って元気そうなのでよかった。Mさんはすっかり髪の毛が白くなっていた。それとも以前は染めていたのかな。4年前の10月、亡くなった妻と僕と、今日会ったTさん、Mさんの4人が僕の車で、バンコクよりも南にあるラッブリーという所に行ったことがある。がんで亡くなった日本人男性のお骨を海に流すのが目的だった。それがいつの事だったか、僕が正確に覚えていたので、Tさんは驚いた。たった4年前のことだから忘れるわけがないのに。

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左から2番目がTさん、時計回りにその隣がMさん、さらにその隣が父親の散骨のために日本から来た娘さんと息子さん、右端は、当時も今も食欲と〇欲の旺盛な僕

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亡くなった日本人男性の娘さんと妻(Tさんの実家にて) 乳癌末期だった妻はこの半年後に他界した。


Tさんは、今はチェンマイに家を残したまま、生まれ故郷のラッブリーに親戚と一緒に住んでいるという。年齢は50を少し超えたのではないか。去年、亡くなった日本人男性の娘さんと息子さんがタイへ遊びにやってきて、Tさんと再会したそうだ。僕にも会いたがっていたという。それにしても、たまたま一人で行ったお店でTさんたちに再会するとは、世間はやっぱり狭かった。犬が今3匹いるという話をしたら、「あら、あなた一人で3匹も世話してるんですか?」と驚くので、「世話係の女性が一人いますから」と答えておいた。

(11月18日、18時)

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心を塞いでしまうニュースばかり

感染爆発寸前になってしまった日本。西村担当大臣は、今後の状況について「神のみぞ知る」と公言して憚らないとか。信じられないよ、まったく無責任。政府に打つ手がないので、「自助」をお願いするということだろう。まるで「Go To Hell」キャンペーンじゃないか。

「信じられないくらい無責任」と言ったのは、次期大統領のバイデンさんだ。確かにトランプさんの発言や態度はとてもアメリカ大統領とは思えないくらい醜い。彼が正式に大統領になる前、アメリカのメディアは、さんざんトランプさんが尋常ならざる人物であることを報じていたが、大統領になった途端にピタリと止んだ。そして、正式に大統領でなくなれば、再びあのような情報を流すのだろうか?ここんところのトランプさんの発言は、あの情報の正しさを証明しているようで、考えてみれば恐ろしい話だ。

恐ろしいと言えば、バンコクの状況だ。平和裏に行われていた反政府・王室改革要求デモが、ついに流血沙汰になったらしい。しかも王室側につくグループがデモ隊に向けて拳銃で発砲したという情報もある。こうなってくると事態が急にエスカレートしてしまう可能性もあるので心配だ。

心配と言えば、市中感染が収まっているはずのタイの感染状況。あちこちの国で第3次の感染爆発が起きているが、タイでは起こらないと言う保証はどこにもない。ただし、タイで起きれば第2次ということかな?コロナに関しては平時に戻っていたタイだが、今後どうなっていくかは、それこそ「神のみぞ知る」だ。

トランプさんの退場によって、世界のあらゆる局面で見られた「対立をものともしない強硬路線」から、「対話による合意形成」のトレンドへと雪崩を打つのだろうか?もしそうなれば、日本にも明るい兆しが見えてくるかもしれない。もっとも、コロナとは話し合うわけにはいかないが。

(11月20日、9時10分)

理科少年

閑話休題。小学生時代の話に戻そう。

4歳年上の兄や2歳上の姉と違って、両親は僕がねだるものは殆ど買ってくれた。3年生の時、実験器具セットが欲しかったので、母と一緒にデパートに行ったときにお願いしてみた。母はすぐには首を縦に振らなかった。これはいつものことだ。「理科の勉強に使うんやから。遊び道具と違うんやから。ねえねえ、買って、買って」・・・それでも母は僕の要求を無視した。「そんなしつこく言うんだったら、あんたをここに置いて帰るよ。」そして母の姿は見えなくなった。僕は知っていた。母が本当に帰るわけはないことを。だからずっとその売り場に立って待っていた。泣き喚いたり、母の後ろを走って追いかけるような子ではなかった。敵を知り、己を知らば百戦あって危うからずだ。その日、欲しかった理科の実験器具の入った大きな箱を持ち帰ったことは言うまでもない。

小学生の頃に親に買ってもらったものと言えば、ほとんどは理科に関係するものだった。昆虫の標本を作るための道具のセットは1年生の時に手に入れていた。3年では今言ったフラスコや試験管、アルコールランプ、シャーレ、リトマス試験紙などの入った実験道具。4年生か5年生のときは顕微鏡と解剖道具、それにプラスチックの人体模型というのもあった。それらを使って学校の授業とは関係なく理科の実験を繰り返したり、顕微鏡で花の花粉などいろいろなものを調べたりした。ただし、人体は解剖しなかったことは言うまでもない。親は僕の飽きっぽさを重々承知していたので、何でもすぐに買ってくれることはあまりなかったが、それでも末っ子の特権のようなもので、たいてい僕の希望通りになった。

僕の兄も中学生までは理科の好きな子供だったらしく、ハム(アマチュア無線家)になるために本を買ってきたり、ラジオを自分で組み立てたりしていた。ところが高校生になる頃には別の好きなものができたらしく、すべてほっぽり投げてしまった。そして兄の残した電気関係の本やアマチュア無線の国家試験を受験するための問題集などを見た僕は、もともと理科好きだったのですぐに飛びついた。同時に、兄の作ったラジオよりはレベルの高いラジオを作ったりして遊んだ。そして6年生の秋、一人で京阪電車に乗って大阪に国家試験を受けに行った。

試験会場に入ると、周囲は全部僕よりも明らかに年上の人たちばかりで、いい歳をしたおじさんも結構いるので驚いた。今はどうか知らないが、60年近く前の当時は、アマチュア無線は大人にとっても結構人気のある趣味の一つだったのだろう。ただし女性はその教室には一人もいなかった。試験は「無線工学」と「電波法規」の2つの科目から成り立っていて、僕の記憶では、それぞれ1時間だったように思う。無線工学の方は、「オームの法則」や「ファラデーの法則(だったかな?)」のような電気に関する公式を使った計算問題や、無線機の配線図の空白を埋めるような問題があったように記憶している。当時の無線工学の試験は記述式だったので、まぐれで正解することはなかったはずだ。電波法規の方は無線従事者が守らなければならない法律の知識を問う選択式の試験だった。小学生にはちょっと難しかったかもしれないが、確か60点以上が合格だったから、合格しにくいという国家試験ではなかった。

12歳でアマチュア無線の免許を手にした僕は、これはちょっとだけ自慢したいのだが、コツコツと貯めた貯金をはたいて京都市内の電気部品問屋に通い、ときには大阪市内にある店まで行って、本格的な無線受信機や送信機をすべて自作した。シャーシというアルミ製の土台はまだいいとして、鉄製のパネルに手動のドリルで穴をあけることは小学生の自分には結構大変だった。でも配線図を紙に書かずに自分の頭の中で描きながら製作する時間は楽しくて仕方がなかった。お金があればメーカー製の送受信機を買えるのだが、僕はこの頃になると親に無心する悪い癖を克服していた。それに、近所の大人のアマチュア無線家を訪問すると、貧しい僕に余っている部品を分けてくれる親切な人がいることが分かってからは、日曜日になると大きなアンテナを目印に、全く知らない人の家を訪ね歩いたりした。

本格的にハムとして無線の交信に明け暮れたのは中学1年から3年にかけてだった。そのころは学校で英語を習い始めていたので、外国の人たちとも頻繁に交信するようになり、QSLカードという、交信に成功した事実を証明する海外のアマチュア無線家から送られてくるハガキを集めることが趣味になった。残念なのは、当時の自宅は北側に山が迫っていて、北米やヨーロッパとの交信は非常に厳しかった。でもはじめてイタリアと交信できたときの興奮を思い出す。相手のコールサインであった「I1(アイワン)YK」を今でもはっきりと記憶にとどめているくらい、中学生の僕にとってはヨーロッパの人と交信できたことは画期的なことだったのだ。しかも、使っていた無線機は安上がりの自作機、アンテナは物干し竿の先からコードを垂らしただけのような実に見すぼらしいアンテナを使っていたから、なおさら海外と交信できたことが信じられないくらいだ。電波はすごいなと子供ながらに思った。小学生の低学年の頃の飽きっぽい性格も、いつの間にか消えていた。

もし理科少年のまま中学を卒業し、高校へと進んで数学や物理・化学などをまじめに勉強していれば、きっと大学も理科系の学部へ進学していたと思う。ところが公立の高校に入ってから、まず数学で躓いてしまった。高校1年のときの担任が女性の数学教師だった。あだ名は「鉄仮面」。文字通りそのような雰囲気を持っている先生で、中学時代の担任の先生のようには僕を可愛がってくれなかった。そのせいではないが、成績はクラスで35番だった。1学期が終わったばかりの面接でこう言われたのだ。

「あんたね、これではとても大学へは行けませんよ。特に理科系は無理ね。もし大学へ行く気があるんだったら、もうちょっと勉強した方がいいわよ」

ラサールや灘校のような進学校でもない京都のごく普通の公立高校で、1年の1学期からいきなり大学進学の話をする先生なんて、僕はどうかと思う。でも、確かに数学の成績は赤点ギリギリだったのと、高1のときの理科の必須科目だった生物も冴えなかった。だから、先生の言葉の影響もあって、自分が理科系の道に進むのは向いてないと勘違いした。今にして思えば、僕はやっぱり本来が理科系人間なのだと思う。学校の成績なんて関係ない。人間は好きなことをするのが一番いいし、青少年の時代は自分の好きなものを見つけるためにその時間があるように思えるからだ。

(11月21日、10時50分)

兄の死がもたらしたもの

僕が中学2年生の時のことだった。夏休みも終わりに近づいていたある日の夕方、近所の交番の警察官が訪ねてきた。母は訝しそうな表情をして玄関の床にゆっくりと膝をついて応対した。僕は奥の4畳半の部屋にいて、聞き耳を立てた。「〇〇さんはお宅の息子さんですよね」「はい、そうですが?」すると、とんでもない一言が警官の口から飛び出した。

その日、高校3年生の兄は、高校の文芸部の仲間と一緒に京都市の南の方にある木津川に遊びに行った。兄は僕以上に泳ぎが得意ではなかったはずだ。それまで泳ぎに行ったという話を一度も聞いたことがなかった。母は友達と遊びに行ったことは知っていたようだが、まさか川に入るとは想像もしていなかったはずだ。

「先ほど交番に連絡があって、今日の午後4時頃、木津川でお亡くなりになりました」

家の中には母と僕の二人だけ。若い警官はそう告げると、しばらく黙り込んだ。母は凍り付いた。声も出せず微動だにしなかった。僕も同じだった。でも頭の中は高速に回転し始めた。「今朝まで一緒にいた兄が急に死ぬなんてあり得るのだろうか」「きっと人違いではなかろうか」「川で死んだっていうけど、溺れたんだろうか、それとも心臓麻痺だろうか」「いや、やっぱりこれは夢の中ではないだろうか・・・・」

母がその現実を受け入れるのに、きっと時間がかかっただろう。けれども僕はすぐにそれが夢ではないことを悟ったはずだが、その後、誰がどう動いてどうなったのか、まったく記憶にない。おそらく父の職場にも連絡が行き、両親はすぐに現場へ向かったのだろうと思う。やはり人間の記憶というのは、ある出来事の一断面だけが脳に強い痕跡を残し、その前後の時間のことは全く忘れ去られてしまう。おそらく、どうやってもその記憶は復元不可能なのだろう。記録されていないのだから。

兄の葬儀は、家から歩いて15分くらいのところにあるキリスト教会で執り行われた。その何年か前に、一家は京都市北区から右京区の鳴滝というところに引っ越していた。高度経済成長の恩恵で、土地の広かった衣笠の家が高く売れ、さらに祖母が亡くなったあと綾部の土地を売却した分け前が少し入り、今度は金融公庫から借金せずに2階建ての新築の家を手に入れたのだ。兄はクリスチャンではなかったが、その頃両親は毎週日曜日に教会に通っていて、牧師さんは快く兄の葬式を引き受けてくれた。まだ夏休みが終わっていなかったにもかかわらず、それほど広くはない教会堂に近所の人や高校生でギッシリいっぱいになった。高校3年生の男女を中心に300人ほどが参列し、兄の棺に列を作って生花を捧げていく光景ははっきりと覚えている。

家族がこの世からいなくなると、誰に強制されることもなく、人間は死というものに向き合うものらしい。生まれ故郷の綾部の祖父や祖母が亡くなったのとは全く異質で、どこか魂が宙に浮くような奇妙な経験だった。小さい頃は別にして、4歳年上の兄と親密に暮らしていたというわけでもなかった。だから母とは違って、特別悲嘆に暮れたわけではない。しかしそれでも、人間は何のために生きているのだろうか?どうして若い兄が急に死んでしまうのだろうか?そもそも人間が死ぬとはどういうことなのだろうか・・・それは思索というのか、想いに耽るというのか、それまでとは違う何か遠い彼方に思いを寄せようとする自分が存在し始めた。

僕は小学生の頃、何度か教会の「日曜学校(教会学校)」に行ったことがあった。子どもたちが集まって、牧師の卵というべき若い伝道師の話を聞き、讃美歌を歌ったりした。僕は2~3度しか行ったことがなかったが、兄が死んでからは両親と一緒にそのキリスト教会へ通い始めた。高校生になったばかりの姉も一緒だった。実はその教団の創設者の牧師は綾部の生まれで、母の父、つまり僕の祖父とは浅からぬ縁があった。その人物の名前は大槻武二(2004年、98歳で没)。大柄で声も大きく、眼光は鋭くもあり優しくもあり、強い光と同時に憂いも秘めた、尋常な人間にはない存在感があった。若い頃は左翼思想に洗脳され、過激な男だったらしい。大正時代が終わり、日本が軍国主義の道を走り始めていた頃だから、そのような人物は社会から排斥される運命にあった。母によれば、酒を飲んで衆議院議員だった祖父の前に現れ、管を巻いていたという。ところが最右翼と言われた政党に属していた祖父が何の因果か大槻の面倒をみたのだという。詳しいことは僕には今もってわからないが、大槻は母に会うと、「若い頃にあなたのお父さんに随分世話になった」と口に出したのを僕も直接聞いている。おそらく、そのころ東京で学んでいて弁舌がたち、存在感は人一倍あったであろう大槻のことを、祖父は同郷のよしみで可愛がったのだろう。

大槻武二は20代の半ばまでにキリスト教の伝道師となった。30歳のころ満州の奉天に渡って布教活動を行った。そのキナ臭い満州で「イエスキリストとの霊的な出会い」というべき神秘的な体験をし、のちに日本に戻ってから聖イエス会というプロテスタントとカトリックが融合したような新しい教団を作った。特徴のひとつは、神に病人の癒しを祈るという、かつてイエスやその弟子が行った行為を積極的に実践したことだ。そして「キリストの再臨」が起こり世界に平和が訪れるためには、ユダヤ人が父祖伝来の土地に根付き、神への信仰によって救われなければならないと説いた。その目的を実現するために、大槻はイスラエルの人たちとの真摯な交流を加速させた。「アンネの日記」で知られるアンネ・フランクの父親のユダヤ人、オットー・フランクも京都の教会を訪れたことがある。彼が日本に持ってきたバラの苗は「アンネのバラ」として大切に育てられ、各地に広まった。教団は若い人たちへの教育目的もあってホロコースト記念館を作った。そして大槻の長男が指導者となって、教会の聖歌隊メンバーによる合唱団を組織してイスラエルやアメリカに派遣した。そうした縁で、大槻の生まれた綾部市はエルサレムと友好都市の関係を結んでいる。

さて僕は高校生になる頃には、「日曜クリスチャン」だった両親とは違って、その教会の熱心な信者に変貌していた。教会の聖歌隊に入り、夏休みごとに四国の高松へ行ったり、広島の尾道に行ったりして布教活動の一端まで担うようになった。尾道では聖歌隊の合宿があった。向島(むかいしま)の小さな教会の外の低い木に、クマゼミが山ほど連なっていた。当然ながら僕一人だけが目を付け、たくさん手掴みして教会の中に放した。会堂に布団を敷いて昼寝している20人ほどの若い聖歌隊員を尻目に、環境が急変した雄のクマゼミたちが昼下がりにもかかわらずシャーシャーシャーと啼き出してしまったことがある。でも誰一人として「セミを追い出せ」とは言わなかった。

(11月23日、10時20分)

タイ版「Go Toイート」

日本はコロナ感染の拡大で「Go Toトラベル」や「Go Toイート」が一部の地域で利用できなくなるそうだが、実はタイでは11月から「GoToイート」と似たようなサービスが政府によって導入されている。

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外国人は利用できないので、昨日までその存在を知らなかったが、「GーWallet」という名称だ。昨日、夕方になって「今日は外に食べに行こうか?」と彼女に提案したら、「じゃあ、150バーツ、ワタシの口座に送金してください。そしたら、300バーツの食事ができます」と奇妙なことを言い始めた。それが、タイ版の「Go Toイート」だった。

利用できるのは予め政府に登録している飲食店に限られる。恩恵を受けるには、まずスマホに専用アプリをインストールして、名前やIDカード番号などを登録しておく。そのアプリを使って利用する日に150バーツをオンラインで(政府機関に)送金しておくと、その倍の300バーツまではお店にお金を払わずに飲食できる。つまり、一日一人当たり150バーツの飲食代を政府が負担するという仕組みだ。

もしお店にタイ人2人で行って、700バーツの飲食をするとしよう。2人はそれぞれアプリを使って150バーツずつを予め政府機関に送金する。すると政府は600バーツをお店に支払ってくれる。だから、2人は足りない分の100バーツだけをお店に払えばよい。つまり400バーツの出費で700バーツ分の食事ができるということ。

もし一人300バーツを超えない食事をしたとしても、政府はお店に一人分として300バーツを振り込むシステムになっている。だから利用する方としては、できるだけ300バーツ目いっぱいか、ちょっと上回るくらいの金額を目指すだろう。300以下の場合でもお店が得をする勘定になるが、多めに飲食してくれればなおのこといい。ただし使えるのは一日一回だけで、昼と夜に分割して利用することはできないようだ。

また政府が支援する限度額は1ヶ月一人3000バーツとなっている。たとえば4人家族だったら、最大で月1万2000バーツ(4万円余りに相当)の援助が受けられることになる。タイ人労働者の収入は1ヶ月1万バーツ程度の人も多いから、これは文句なく庶民の味方だ。同時に、お店の味方でもある。利用する側は食事券などを買う必要もなく、全てスマホを利用したオンラインのシステムだから、どこかの国とはその点が大きく違う。(ただし、よくよく考えると、4人だったら1回の飲食で600バーツを予めG-Walletに送金しなければならないから、お金のない家族は利用できないだろう。そういう場合は代表者が一人分の150バーツを送金して、300バーツ分の食事を4人で分けるという使い方もできる。)

昨日は、僕がスマホで彼女の口座に150バーツ振り込んだあと、それを彼女がスマホでGーWalletに送金してから近所の大衆的なタイ料理店へ行った。金額は2人で290バーツと安かった。食べた後、彼女のスマホとお店のスマホでバーコードのやり取りをしてお会計は終了。飲食代金が300バーツを超えなかったので、お店での支払いはゼロ。僕は外国人なので彼女一人分の150バーツの援助しか受けられないが、それでも無いよりは助かる。

当分このサービスは続きそうだから、せいぜい彼女と一緒に外食して、月3000バーツを節約することにしよう。彼女は今月はまだ1300バーツくらい援助を受けられる。一日150バーツだから、残りの6日間、毎日使っても使いきれない。もっと早く言ってくれればよかったのに・・・

(11月25日、8時15分)

感染者一人に大騒ぎのチェンマイ

昨日、チェンマイ県感染症委員会がタイ人一人のCovid-19の感染を発表した。情報源は元々は「ChiangMai News」という英文のウエッブニュースで、日本語の情報は感染症委員会の発表に基づいて、在チェンマイ日本国総領事館がホームページに詳しく掲載している。

改めておさらいしておくと、感染したのはチェンマイ在住の29歳のタイ人女性で、この1か月ほど仕事でミャンマーとチェンマイの間を何度か行ったり来たりしていたという。タイ人の友人一人も一緒だった。彼らは24日の早朝にミャンマーのタチレクからチェンライ県のメーサイに陸路で入国、メーサイのソンテオ(乗り合いバス)とチェンライからの路線バスを乗り継いでチェンマイに戻ってきた。

戻ってきた24日の夜に友人と一緒にサンティタムの歓楽街で過ごした後、その友人のコンドミニアムで飲酒。25日に本人のコンドミニアムに戻っている。その日の午後、大型ショッピングモールのセントラル・フェスティバルで映画を見たり、シャブシという名前の和食店で食事したりしたという。セントラル・フェスティバルは僕もよく行く場所なのでよく知っているが、入り口での体温測定は当然やっているし、マスクなしでは入れないところだ。

さて、どうして感染が分かったかというと、ミャンマーから帰国する前日の23日に発熱や下痢などのインフルエンザに似た症状があったという。そして26日になって私立病院を受診したところ、コロナの疑いで公立のナコンピン病院へ送られ検査を受けた(ChiangMai Newsでは24日にナコンピン病院を受診とあるがおそらく間違い)。結果は陽性で、すぐに隔離されたあと、翌27日に再度の検査でも陽性だったので感染が確定し、昨日の発表となった。

このニュースは昨日の午後4時ごろ、我が家の彼女もスマホで把握しており、僕に伝えてくれた。僕の感想は「意外だなあ」と「ああ、やっぱり」の両方だ。「意外」というのは、外国からの入国者は外国人であれタイ人であれ、今のところは14日間の隔離を行うことになっているのに、このタイ人はそれをどうやってすり抜けたんだろうかという点。「ああ、やっぱり」というのは、これと全く逆のことで、空路で入ってきた人は14日間の隔離を行っても、陸路はザルだという説が前からあったので、彼女たちがスルーしてきたのも不思議ではないなということ。

それにしても、感染者がたった一人出ただけで、これだけの騒ぎになるというのは、ある意味ではチェンマイはとても安心できる場所なのかなという気がしないでもない。もし日本だったら、人口が30万を超えるような都市で、たった一人の感染者の感染経緯について、これだけ詳細な情報を発表することはあり得ないだろう(コトの是非は別として)。

しかし、このニュースを聞いてひとつの懸念が湧いてきたことも事実である。

この29歳の女性の場合は、たまたまインフルエンザのような症状が何日か前に出たので医療機関の受診につながったわけだ。もし無症状のままだったとしたらどうなるであろうか。しかも、彼女たちは仕事でミャンマーに出掛けていたというのだから、他にも陸路でミャンマーに行くタイ人がいるのだろうし、それ以上に、ミャンマーからの出稼ぎ者がザルをすり抜けて入ってきているに違いないと思う。だから、コロナに感染していても無症状だから病院へ行かない。そして知らず知らずのうちに他人に感染させている人がチェンマイにも存在する可能性はかなり大きいのではないだろうか・・・

タイはチェンマイに限らず市中感染がここ数か月、ほぼ完全に収束しているかのように思われがちだが、実はそうではないのかもしれない。日本と同じで、もし夜の街で行動するときは最大の警戒心を働かせなければならないし、そうでなくても、人の多いところではマスクを必ずつけ、帰宅後の手洗いも欠かしてはならないということ。昨日のニュースは、相変わらず油断大敵ということを思い出させてくれた。

ところで、その女性の接触者の数は326人であると発表されたが、一体どうやって割り出しているのだろうか?全員にPCR検査を実施するのだろうか?まず第一に、彼女と一緒にミャンマーへ出掛けたタイ人は陰性だったのだろうか?陸路からの入国者に対する対策を強化するとか、何らかの措置をタイ政府は取らないのだろうか?いろいろな疑問が湧いてきて、いまのところまだ僕の中では解決していない。

(11月29日、13時50分)

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大失敗と大成功だった大学受験

今さら大学受験のことを書くのはどうかと思うが、やはり僕の青春時代の大きな節目として受験があったことは確かだから書いておこう。

高校1年の一学期の成績がクラスで35番。担任いわく「これでは大学なんて無理ね」。そりゃそうだろう。進学の実績が並の公立高校なのに、真ん中よりも下の成績。3学期になってクラスで29番になったけど、変わり映えはしなかった。学校の授業に身が入らなかったし、家でも勉強しなかった。中間試験や学期末試験前の“一夜漬け”専門だった。キリスト教会の聖歌隊に入っていて、そちらの方は一生懸命だった。将来は伝道師になりたいと思い始めていたので、世俗的なことからは殆ど距離を保って毎日を過ごしていた。もちろん女の子に興味を持つこともあまりなかった。あくまでも、他の生徒と比べてと言う意味で。

小学生の時から理科が好きだったけれど、この頃になると、もうその道は全く考えなくなっていた。興味があったのは音楽、それも歌。と言っても、ロックやフォーク、歌謡曲でもなく、クラッシックの歌。聖歌隊では、たまに声楽の専門家のレッスンもあったので、発声法は徐々にそれらしくなっていたのかもしれない。高校の音楽の成績はおそろしくよかった。東京芸大の声楽科を出た男の先生だったが、歌唱の実技はいつも90点以上くれた。シューベルトの「セレナーデ」をドイツ語の原語で歌ったときは97点だった。

高3になると、大学受験の模擬テストが1学期から始まった。最初は酷い成績だった。このままでは大学に行けるわけないと自覚した。当時短波放送でやっていた旺文社の大学受験講座というのを聞き始めた。テキストを買って、早朝にもかかわらず熱心に勉強した。大学受験のための「添削指導」というのも始めた。ただし、東大受験生がよく利用するという「Z会」は余りにレベルが高かったので長続きせず、マイナーな京都の出版社の添削を利用した。その効果が表れたのか、2学期になると模擬試験の成績が飛躍的に伸びた。「なんだ、自分だってやればできるじゃないか」と思い始めた。いつの間にか模擬試験の成績は校内で10位以内になり、最後はほとんど1、2位を争うようになっていた。

親に負担はかけたくないから地元の国立大学を目指した。その大学は文系でも英数国のほかに社会が2科目と理科が1科目必要だった。世界史、日本史、そして化学の勉強を始めたのはちょうど今頃、つまり11月頃だったと思う。3か月やそこらで何とかなるものかどうかは分からなかったが、とにかくエンジンを全開にした。ところが昭和44年になり、安田講堂事件が起こった。東大は入学試験を中止した。そして東大を目指していた受験生は僕の地元の大学に殺到したと言われている。

入試の結果は惨憺たるものだった。東大が中止になった煽りなんていうものではなかった。そうではなく、自分の不甲斐なさで試験に落ちたのだ。不得手だと言いながらも、解答の要領を身につけたはずの数学で失敗した。その年の文系の数学はやさしい問題ばかりに見えた。つまり、簡単そうな数学で失敗すると決定的に不利になる。自信満々で国立大学だけを受験した僕は数学で躓き、出直しとなった。そしてそれは、素晴らしい予備校の教師たちとの出会いというおまけが付いた。英語、数学、世界史・・・どの先生も、単に知識を詰め込もうとするのではなく、人生を語ってくれた。高校の時には経験しなかった授業だった。時々脱線して自分の信念を語ってくれる先生たちがたくさんいたのだ。大学受験に失敗した者にとっては聞き逃せない教訓に満ちた話だった。英語の先生は自分の恋愛観を話してくれた。「相手のことが本当に好きなのか、とことん自分を追い詰めよ。もし本当に好きなら、とことん前へ進め。そうすれば素晴らしい力が出てくる」と、その先生は熱を込めて語った。数学の先生は「所詮受験の数学なんてゲームみたいなもので、人生には何の役にも立たない。回り道せずにさっさと問題を解くコツだけ覚えてしまえ。早く大学に入って、受験なんか忘れて、もっと大切な人生の問題にトライしろ」と言った。

浪人してからの受験勉強はさらに要領を重視するようになった。受験する大学の過去問を徹底的に調べた。とくに理科や社会は過去10年以上の全部の問題と解答を暗記するくらい調べ倒した。文系を受験する高校生はだいたい数学と理科が苦手だ。だから数学と理科で差をつければよいと思った。高校の時は数学が赤点ギリギリだったが、それは勉強しなかったからだ。参考書を一冊選んでやり始めると、面白いように模擬テストの成績がよくなった。英語は元々得意科目だったから、数学と理科が攻略できれば鬼に金棒だった。世界史と日本史は参考書は一切使わず高校の教科書をほとんど全部丸暗記して臨んだ。合格した後、出身高校に出向いて大学から通知された入試の成績を見せてもらった。ほとんど何も勉強しなかった国語は200点満点で115点という酷い点数だった。でも英語、数学、化学はほぼ満点に近かった。その1枚の紙切れには合格最低点と合格最高点も記されていた。自分の合計点数が最高点と一致していた。黙っていたので誰からも褒められることはなかったが、気分は最高によかった。

とにかく国語がダメだった僕は何を間違ったのか文学部という学部に入ってしまった。それまで、小さい頃のイソップ物語と小学3年の頃のシャーロックホームズと、4、5年生の頃の「丸」という父が読んでいた戦争雑誌と、6年生のときの無線工学の本以外は、漫画を除けば本をほとんど読んだこともない自分だった。高校生の頃も聖書をはじめキリスト教関係以外の本は読んだ記憶がない。文学部はまったく自分に合っていないということは分かっていた。ただ将来は伝道師になりたかったので、法律でもなく経済でもなく、ましてや理系ではなく、なんとなく文学部を選んだのだった。

(11月30日、9時5分)

プロフィール

Niyom

Author:Niyom
2012年、60歳でチェンマイへ移住。2017年にタイ人の妻を病気で亡くした後、愛人だった若いタイ人女性と再婚、前妻が可愛がっていた小さな犬2匹も一緒に暮らしていたが・・・

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