“成長戦略”の幻想
「大阪都構想」に賛成か反対か、僕は大阪出身ではないが今回の住民投票の帰趨には強い関心があった。「都構想」は大阪に限らず、政令指定都市のある自治体にとってはかなりの関心事であったと思う。僕自身は、よくわからないこともあり、賛成でも反対でもなかった。
なぜ関心があったかというと、これを言い出した当時の大阪市長の橋下徹さんの日ごろの言動が、理屈ではなく“生理的に嫌い”だったことが大きい。橋下さんの発言のなかには、理屈では真っ当なことが多いと思うし、共感できることもある。しかし、しばしば露になる彼の高圧的、強権的、挑発的、さらに言うと傲慢不遜を地で行くような上から目線の発言に対して「行列のできる法律相談所」の頃から既に抵抗があった。それでも、大阪都構想そのものは大阪市民が決めることなので、賛成でも反対でもなく、ただ橋下さんが言い出したアイデアを大阪市民が是とするかどうかに関心があったのだ。
さて、その大阪都構想が2回の住民投票によって否決された。昨夜の記者会見を見ていると、維新代表の松井市長や代表代行の吉村知事の「自分の力不足」という発言はいかにも潔いものだった。まあしかし、都構想がほんとうにベストだと思っていたのなら、住民投票の結果をもっと悔しがるのが人間というものではないかな、と思ったことも事実だ。きっと、都構想は「命を懸ける」というような代物ではなかったのではないかという疑念すら湧いてきた。
それはそうとして、今回の住民投票を遠くから眺めていて、ひとつだけ気になったことがある。それは都構想を実現させたい側が常々口にしてきて、結果が出た後でも同じように力説している「大阪の成長戦略」という言葉である。大阪に限らず、「経済成長」は当然に必要だと言う発想に、僕自身は以前から強い抵抗感を抱いている。
平たく言えば、お金をたくさん儲けて会社を大きくしよう、生活を豊かにしよう、国際的にももっと誇れる国にしよう、という昔からある発想である。成長すること、大きくなることは常にプラスをもたらすという発想だ。でも、それが行き詰まってきているのが今の日本であることは間違いないだろう。成長がいけないと考えているのではない。成長には飽和点というものがあるんだという事実を前に、人間はもっと謙虚であるべきではないかな、と思うのだ。
成長とは、すなわちエネルギーの消費そのものであることは自明である。だから限界があることも自明であり、それを無理に推し進めるといつか限界点に達して、いろいろと不都合なことが地球規模で起きることも、今やほぼ自明だと思う。どこにもしわ寄せがいかずに、すべての国や地域が成長することがあり得ないことも当然に自明だ。考えてみればわかることだが、成長とは、すなわち搾取でもある。国単位でも、企業単位でも、人間単位でもそうだろう。
大阪の場合は、都構想が潰えた今となっては、とりあえず大阪万博の準備とIRの実現に注力することが成長戦略の課題だと言う。万博は時代に合っているかどうかは別として、それなりに結構なことだと思うし、IRだって経済的に見れば大きなメリットがある。でも、どちらもエネルギーはそれなりに消費するわけだし、それによって住民がより幸せになるとは到底思えない。だれかが太って、だれかが痩せるという構図は崩れないだろう。それが成長の宿命だからだ。
(11月2日、10時)
なぜ関心があったかというと、これを言い出した当時の大阪市長の橋下徹さんの日ごろの言動が、理屈ではなく“生理的に嫌い”だったことが大きい。橋下さんの発言のなかには、理屈では真っ当なことが多いと思うし、共感できることもある。しかし、しばしば露になる彼の高圧的、強権的、挑発的、さらに言うと傲慢不遜を地で行くような上から目線の発言に対して「行列のできる法律相談所」の頃から既に抵抗があった。それでも、大阪都構想そのものは大阪市民が決めることなので、賛成でも反対でもなく、ただ橋下さんが言い出したアイデアを大阪市民が是とするかどうかに関心があったのだ。
さて、その大阪都構想が2回の住民投票によって否決された。昨夜の記者会見を見ていると、維新代表の松井市長や代表代行の吉村知事の「自分の力不足」という発言はいかにも潔いものだった。まあしかし、都構想がほんとうにベストだと思っていたのなら、住民投票の結果をもっと悔しがるのが人間というものではないかな、と思ったことも事実だ。きっと、都構想は「命を懸ける」というような代物ではなかったのではないかという疑念すら湧いてきた。
それはそうとして、今回の住民投票を遠くから眺めていて、ひとつだけ気になったことがある。それは都構想を実現させたい側が常々口にしてきて、結果が出た後でも同じように力説している「大阪の成長戦略」という言葉である。大阪に限らず、「経済成長」は当然に必要だと言う発想に、僕自身は以前から強い抵抗感を抱いている。
平たく言えば、お金をたくさん儲けて会社を大きくしよう、生活を豊かにしよう、国際的にももっと誇れる国にしよう、という昔からある発想である。成長すること、大きくなることは常にプラスをもたらすという発想だ。でも、それが行き詰まってきているのが今の日本であることは間違いないだろう。成長がいけないと考えているのではない。成長には飽和点というものがあるんだという事実を前に、人間はもっと謙虚であるべきではないかな、と思うのだ。
成長とは、すなわちエネルギーの消費そのものであることは自明である。だから限界があることも自明であり、それを無理に推し進めるといつか限界点に達して、いろいろと不都合なことが地球規模で起きることも、今やほぼ自明だと思う。どこにもしわ寄せがいかずに、すべての国や地域が成長することがあり得ないことも当然に自明だ。考えてみればわかることだが、成長とは、すなわち搾取でもある。国単位でも、企業単位でも、人間単位でもそうだろう。
大阪の場合は、都構想が潰えた今となっては、とりあえず大阪万博の準備とIRの実現に注力することが成長戦略の課題だと言う。万博は時代に合っているかどうかは別として、それなりに結構なことだと思うし、IRだって経済的に見れば大きなメリットがある。でも、どちらもエネルギーはそれなりに消費するわけだし、それによって住民がより幸せになるとは到底思えない。だれかが太って、だれかが痩せるという構図は崩れないだろう。それが成長の宿命だからだ。
(11月2日、10時)
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