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なぜ犬のチビに語らせるのか?

4月29日(日)

1週間前から書き始めた「吾輩はチビである」は、言うまでもなく夏目漱石の「吾輩は猫である」のもじりである。たまたまこのブログのテンプレートのデザインに「しろいねこ」の画像を拝借していることもあって、急に思いついたのだ。その割には文中のチビが「吾輩は・・・と思う」という風には言わずに、「僕は・・・」と変化に出ているのは、真似であることを余りにもあからさまにするのを嫌ったからである。その辺は芸が細かい。

もじりだからと言って、漱石大先生の向こうを張って何か文芸路線に転向しようと画策しているわけではない。多少はその気配だけでも醸成できないかと、現代風な表現と近代文芸風の漢語を多用した文章をところどころに織り交ぜる工夫はしているつもりで、「はは~ん」と感づいた読者も少なからずいるに違いない。繰り返すが、もとより文芸作品とは無縁で、ただただ愛犬の目を通して日常を描くとどんな世界が映るかと実験しているのである。ご存じのように、人間の世界は「行為」と「言葉」が同列に置かれて評価される仕組みになっていて、言葉が変われば世界自体も変化するように出来ている。

ここまでは建前を格好つけて述べた。実際は「吾輩はチビである」の構想をある日突然思いつき、いざ文章を書き始めてみると己の文章能力の未熟さを厭というほど思い知らされることになった。書くのに時間がかかるわけではなく、むしろその逆で、普段のブログの数倍とも思われる驚異的なスピードで言葉が自然とあふれ出てくるのであるが、その味わいのなさと、美しい日本語からは程遠いリズム感の欠如は、読み返してみて唖然とするばかりである。

そんな中でも、このシリーズを書きはじめてから幾つかの発見があったこともまた事実である。この1か月ほど前から、昔に帰ったように読み漁ってきた永井荷風や谷崎潤一郎、そして遡っては夏目漱石といった日本の近代文学の巨匠たちの語彙力の凄さに今さらながら只々脱帽するよりほかなかった。決して真似ようというような大それた魂胆が萌芽したわけではないが、「漱石ならば、ここに漢語で構成された諺や警句(アフォリズム)を一句挿入するはず」だとか、「ここのところには、直接的な表現の前に、まずは譬えを用いるはず」等々、所謂「大和言葉」とはまた趣を異にする中国由来の言葉の奥深さを追求しようとはしてみた。そう意識はしてみるのだけれど、自分には如何せん語彙が足りない。巧く書きたいのだけれども適切な言葉が出てこない。このもどかしさに何度も頭を抱え込んだ。若い頃からきちんと書き言葉としての日本語の修行をしておけば良かったと後悔まで出てくる始末である。

事実をごく平易な言葉で淡々と綴ることは若い頃からそれなりの鍛錬を重ねてきた。その種の文章のお手本として学生時代に愛読したのは松本清張の小説であった。つまり1個1個のセンテンスはごく短くて、一つのセンテンスの中に複数の事柄を書き表すことはご法度なのである。若い頃は職場の先輩からも「ワンセンテンス、ワンミーニング」と言われてよく指導を受けたものだ。

日本語の会話にありがちな主語の明確ではない文章も論外。また同じ長さの文章を連ねるのも愚の骨頂で、ワン・ツー・スリー、ホップ・ステップ・ジャンプのような全体にリズム感があって、恰も甘美な音楽を聴くような心地よさを読み手に与えるのが理想的な文章と心得るようになった。それは清張先生の簡潔かつ明瞭な、言わばさらりとしたワインのような文章表現とも軌を一にする。ただし、漱石や谷崎といった、いわゆる文豪の比較的長文で濃厚な、嘗ての日本酒そのもののような味わい深い文章とは趣が異なるのは、これはやむを得ない。

さて、このような事をつらつら書き連ねていても、日本語や日本文学などには興味がなく、まさにタイに関心のある御諸兄には実にくだらない独り言としか映らないであろうからこの辺でやめておく。しかしながら、「吾輩はチビである」という発想自体は捨てがたく思われるので、前の6回をもって終わりにしないことにする。いつまで続くか分からないが、当面はこの路線で楽々日記を綴っていこうと思う。



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なまけ

夏目漱石というのは、留学し猛烈に勉強しておかしくなったと当時は噂されたそうで、100年後の日本人の社会意識や精神構造を先取りしていたのかもしれません。ペットに仮託することで、語り得ることもあったかもしれません。

ブログ記事、面白かったです。

いまバンコクに滞在中で、年金生活者ながら、長く滞在できるかを試しています。機会を得て、次はチェンマイにも滞在したいと思います。

Re: なまけ

なまけさん、おはようございます。

> ペットに仮託することで、語り得ることもあったかもしれません。

漱石先生の「吾輩は猫である」の面白さは、茫洋としている割には気が短く、それでいて他人に易々と丸め込められる意思の弱さも露呈する“主人”の独特のキャラクターにあると僕は見ています。翻って、僕の主人はそのような複雑なキャラではなく至って単純な人間だということは、すでに僕もお母さんも見抜いています。だから案外と平和な家庭になっていくかもしれません。(頭が少々変な点だけは2人の主人に共通しているかもしれません。)

> 機会を得て、次はチェンマイにも滞在したいと思います。

今ならバンコク以上に暑いので、乾季にさしかかる11月から2月上旬にかけての時期がチェンマイについては最も適当でしょう。ただし、日中40度を超す内陸部独特の猛暑も経験する必要があるとなれば、ソンクラーンの頃をお勧めします。

(最近のブログの惰性で、文章が長くなりすぎる弊をご容赦ください)
プロフィール

Niyom

Author:Niyom
身を削って過ごした30余年のサラリーマン生活にピリオド。ここチェンマイに移り住んでからも、楽しいこと辛いこと、いろいろとありました。でも、それは全部過去のこと。人生、どこまでリセットできるものなのか、自ら実験台になって生きています。

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