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Tは、ついに僕を追い出した

僕たちが離婚の日程を8月26日と決めたあとも、(Tではなく)妻はさらにそれを早めることを要求した。ところが、そんな離婚手続きのやり取りをしながらも、僕たちはお互いを愛しく思い合う言葉を交わし続けた。

そんな心の揺れを、勘の鋭いTはすべて読み取っていた。8月18日、日曜日の出来事だった。

その日の午後、Tと僕はアパートの部屋でくつろいでいた。僕のケータイには別居している妻から何通かのLINEがいつものように入ってきた。そして問題のLINE。

「ワタシは離婚なんかしたくありません!」

なぜ彼女がこう書いてきたのか、その理由は明らかだった。僕がついつい「キミのことは今でも愛しているよ」と書いて送ってしまったからだ。受動的に離婚に同意していた妻の心を、離婚を望んでいた僕自身が搔き乱してしまったのだ。

僕は、彼女に無理やり離婚を迫った後悔の念と、Tとのことはどうなってしまうのだろうか?という躊躇の念が入り混じった複雑な思いのまま、深くは考えず反射的に彼女に返信した。

「とにかく明日の朝、家に行くから、もう一度話し合おう」

Tは僕のすぐ傍にはいなかった。少し離れたベッドの上でケータイを見ながら休んでいた。僕は自分のケータイをオフにしてシャワーを浴びた。わずか3分くらいのことだった。バスルームから出てくると、Tは僕に唐突に質問した。

「明日はアナタ、何か予定がありますか?」

「いいや、特に予定はないんだけど・・・」

「朝、市場へ一緒に買い出しに行ってくれますか?」

「朝の早い時間だよね・・・だったら一緒に行くよ」

ちょっとした沈黙の時間があった。

「アナタ、無理しなくていいわよ。明日は家に行くんでしょう。奥さんに会いに行くんでしょう!」

僕は驚いた。さっきLINEで彼女に返信してから5分も経っていない。ベッドから離れたテーブルの上に置いてあった自分のケータイの方を思わず見遣った。ケータイ自体は画面をロックしていないが、LINEは暗証番号でロックしている。だから、Tがこっそり見たとは思えなかった。

Tと僕は、タイ語と英語の2つの言語が入り混じった独特のやりとりをする。タイ語だけ、英語だけ、ということはまずない。しかし、この時のTの言葉は、全てタイ語だった。しかも早口だった。

「アナタは明日、奥さんに会いに行くんですね」

「いや・・・まだ時間とか決めてないし・・・」

「いいんですよ。行ってらっしゃい。アナタは奥さんのことを愛してるんです。ワタシよりも愛しているんです。それくらい、ワタシは馬鹿じゃないからわかります」

「いや、そんなことはないんだけど・・・明日、一度家に帰ろうと思っていることは、その通りだけど。でも、どうしてそれが分かったの?」

「ワタシは犬の鼻を持ってるんです。ちょっとした臭いも嗅ぎつけられるんです。なぜアナタの考えていることが分かるのか、もしアナタと別れることになったら教えてあげます。そのテクニックを。でも、別れないかもしれないから、今は教えません。もし教えてしまったら、アナタもきっと馬鹿じゃないから警戒するでしょ・・・」

少し余裕を取り戻したTは自分の鼻を自慢した。

夕方になって、Tは夕食の準備をし始めたが、僕はそれを制して外に食べに行くことを提案した。憂鬱そうな顔つきのTにご飯を作ってもらうことが忍びなかったのだ。


僕たちが出かけたのはアパートから歩いて5分のところにある大きなレストランだった。レストランというよりも、ライブハウスと言った方が適当かもしれない。入り口でIDカードをチェックし、18歳以上であることを確認される。僕も免許証を取り出して見せたが、係員は見ようとはせず、ニッコリと笑って僕の左手首にスタンプを押してくれた。

Tは鍋料理と1リットルの生ビール、そしてウイスキーの小瓶を同時に注文した。

「今日はワタシも飲みますから。でも全部ワタシが払います」

Tはいつもはビールをコップに1杯か2杯しか飲まない。ウイスキーの水割りも少し舐める程度だ。でも、この日は料理をほとんど口にすることなく、ガンガン飲んだ。僕も同じくらい飲んだけれど、Tほど酔うことはなかった。

Tは生ビールとウイスキーがなくなると、ビールの大瓶を次から次へと頼んだ。正常な飲み方ではなかった。しかも料理はあまり食べなかった。ライブ演奏の音が大きい。Tの言葉が殆ど聞き取れない。僕はただ黙って演奏を聞いて飲んだ。そして食べた。

Tは1曲の演奏が終わるたびに、他のお客さんよりも遥かに大きな声を出してバンドに声援を送った。6時半に店に入ったとき、空席が多かったのに、9時ごろには若い人たちで満席になっていた。200人以上だろう。

Tは酔った。一つ前の席にいた見知らぬ女性客に抱き着いた。同じくらいの年齢に見えた。見知らぬ女性客は、はじめは躊躇していたが、やがて優しい手でTを抱きしめて背中をさすった。きっとTの心の哀しみを、言葉ではなく、その表情から理解したのだ。僕はその様子を、ただただ黙って後ろから見つめていた。

これで、僕たちの関係は終わってしまうのだろうか・・・明日家に帰ったら、妻とどんな話をすればいいんだろうか・・・

店を出たのは午前零時を過ぎていた。ライブ演奏が終わって客が帰り始め、Tは酔ったまま自分のクレジットカードを出して会計した。僕はコッソリとTの財布の中に1000バーツを入れたが、Tはそれに気づいて突き返してきた。今度はTがトイレに行っている間に、また1000バーツを入れた。今度はバレなかった。会計はあとで分かったのだが、1200バーツだった。


酔っている筈のTは足が速かった。しかも途中で僕を振り払うかのように走り出した。いや、実際振り払うつもりだったのだろう。だから、先に部屋に入ってカギをかけられてしまうのが怖かった。Tは知らないはずだが、たまたまこの時だけ部屋の合いカギを持ってこなかったのだ。

部屋に入るとTは号泣した。しかも水洗トイレの便座に顔を押し当てて泣き崩れているのが見えた。吐いているのかも知れなかったが、聞こえてくるのは慟哭だった。そしてトイレから出てきたTは叫んだ。

「いますぐに家に帰りなさい!アナタの愛している人のところに帰りなさい!!!」

「もしアナタが今ここに、このままいたら、とても大変なことが起こりそうで怖いわ。だから、いますぐ出て行って!!!」

「何言ってるんだよ。出て行くとしても明日の朝だよ。If you want to kill me, kill me right now.(もし、僕を殺したいなら、今すぐ殺しなさい)」

Tは泣きながらロッカーに入っていた僕の服を乱暴に取り出して、床に投げた。さらに部屋のドアを開けて、なぜか買ったばかりの掃除機と一緒にアパートの廊下に放り出した。夜も午前1時をとっくに過ぎていた。僕はとにかくアパートの他の住人に迷惑がかかることを恐れた。

取り乱しているTとまともに話すことなどできるわけがない。心を固めざるを得なかった。もう、これで終わりにするよりない。このままこの部屋で一緒に夜を過ごすことなどできるわけがないと悟った。一番恐れたのは持ち込んでいるパソコンを壊されることだった。そこには大事な情報が詰まっている。でも、Tはなぜかパソコンだけは放り投げることをせずに丁寧に扱った。僕はあわてて段ボール箱に入れて廊下に出した。そして、投げ出されていた服を急いで2つの鞄に詰めた。とにかく、部屋にあった僕のものを一つ残らず全て鞄に放り込んだ。

部屋を出る前に、ベッドの上でまだ泣き崩れていたTを一度だけ抱擁した。心のこもらない、形だけの抱擁のように自分では思われたので、すぐにTから離れて部屋を出た。

ハンドルを握っている自分は、いつしかすっかり酔いが醒めているような気がした。通いなれたいつもの道路は、深夜は車がいなかった。とくに、郊外にある自分の家に近づく頃は、道路は森閑としていて、ほとんど1台も車がいなかった。

ついに僕はTとは別れてしまった。そして再び家に帰ってきた。いつも寝ていた2階の寝室のドアを開けると、彼女が静かに寝ていた。いや、寝ているのではなく、僕が帰ってきたことに気づかないはずはない。ただ黙って僕をベッドに迎え入れた。

僕は、まさか朝になって再びドンデン返しがあるとは思いもよらずに、彼女の横で眠りについたのだった。

(8月21日、午前0時)

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No title

事実は小説よりも奇なりとはこのことですね。
今後の余波が小さいことをお祈り申し上げます。

Re: No title

シュールさん、こんにちは

> 事実は小説よりも奇なり

小説やドラマなら、事態の展開にある程度の時間経過があると思うのですが、こちらはいつも急展開。書くのが間に合いません(笑)。
プロフィール

Niyom

Author:Niyom
2012年、60歳でチェンマイへ移住。2017年にタイ人の妻を病気で亡くした後、愛人だった若いタイ人女性と再婚、前妻が可愛がっていた小さな犬2匹も一緒に暮らしている。

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