恋愛賛歌
先日「恋愛劇を書くことに飽きてきた」と書いたばかりだ。飽きたというよりも、疲れたという感じがある。そもそも恋愛というものは神経をすり減らすものだ。相手が自分のことをどれくらい思ってくれているか、四六時中気にすることが多いわけだから。
でも、今日は「賛歌」という表題にした。なぜかというと、70代に達してからの恋愛によって、自分がすごく若返り、精神も活性化されたように感じるからだ。「老いらくの恋」という言葉が日本には昔からあるが、実感としては、青春時代の恋愛とほとんど違わないのではないか。僕の場合は基本は性愛。相手の女も30代までで、比較的若い。昔から言われている「老いらくの恋」と違うのかどうか、それは分からない。
Nとの関係は、ついに安定期に入ってきたように感じている。ということは、急性期の恋愛症候群を乗り越えて、家族を形成する次の段階に入りつつあるのかもしれない。「かもしれない」と断定を避けるのは、僕の心がとても変わりやすいからだ。いまだに誰かさんへの思いが強い。昨日Nが自分の家に帰ってから、ほとんどNと同じくらい誰かさんのことも思っている。そして誰かさんに会いたくなったので、今週ゴルフの予約を入れてしまった。彼女は受けてくれた。きっと戸惑ったことだろう。仕事とはいえ、別れた男にまた会うのだから。罪作りなことをしているのかもしれない。
さて、最近気が付いたことがある。もしこのブログを書いていなかったら、恋愛劇は成立していなかったかもしれない。出会いのことから、その後のデートの詳細を綴ることによって、僕は自分自身が恋愛小説の主人公になったような感じになり、物語をどのように展開させるか考えるようになったからだ。つまり、「いかに物語を面白くするか」ということを考えながら恋愛をしていたわけだ。もちろん無意識にそうしていたのだと思う。
今も誰かさんのことを強く思っていることすら、ひょっとして自分の心の奥底にある思いではなく、「誰かさんか、それともNか」という葛藤に揺れる男心を半分ノンフィクション、半分フィクションとして描こうという欲求が根本にあるのかもしれない。その意味では、ブログがなければ、誰かさんとの生活は何の波風も立たなかったのかもしれない。つまり、ブログのネタとして恋愛劇を求めたのかもしれない。
なぜこんなことを書いているかというと、いきさつはともかくとして、もうNという一人の女性とは切っても切れない関係に入っているような気がしているからだ。彼女が僕の最後の伴侶となるような感覚が自分の中に芽生えている。ごく自然に。それでも万が一、誰かさんとヨリを戻すようなことになれば、それは一種の作家願望のようなものが僕の中にあって、思いっきり冒険をしてみたいという衝動に駆られたときにそうなるような気がする。
「恋愛賛歌」という表題で書き始めたのとは少し違う方向に行っている。でも、結局は年齢などには関係なく、男と女の恋愛は、いや男同士でも女同士でも、(僕はどこかの元秘書官とは違って他人の事なら何の嫌悪感も感じない)人間が生きる上で最高の活力源であり、すばらしい生きがいを与えてくれるものだと確信できた。
前に一度ブログに書いたことがあるが、30代のころに「老人の性(あるいは恋愛と言ってもいい)」について、テレビのドキュメンタリー番組で何人もの高齢者を取材したことがある。そのときはあまり理解できなかった高齢者の異性への感覚が今はわかるようになっている。「80歳を過ぎた今でも、若い頃と同じように女にときめく」と言った男性の言葉がよくわかる。ただし相手の女性は60代だったけれど(笑)。きっと僕は80代になっても自分より遥かに若い女を求めるだろう。できることなら、その相手がNか誰かさんであることが一番幸せのような気がする。
(2月6日、19時35分)
ワインを飲みながら一気に書いたので、論理的には意味不明のことを書いているかもしれない。恋愛は論理的には説明が困難なので、ご容赦あれ。
ところで、誰かさんがまだ家にいた頃は、夜はいつもNとLINEで会話していた。ところが今は誰かさんがいないのに、ほとんどLINEのやり取りがなくなった。「恋愛症候群を乗り越えて」と書いた根拠の一端だ。つまり、心ときめく関係ではなく、日常になりつつある。Nと夫婦関係に近づいているように感じる理由のひとつでもある。
本音を書こう。ひとつだけ、とっても残念に思うことがある。誰かさんとの子づくりを本気で考えたことがある。でもダメだった。だから、どんなにNと愛し合っても、子供はできないだろう。僕は決して「生産性云々」というような人間ではないが、相当に古い価値観も持っている人間なので、男女が愛し合えば、その結晶としての子供は人間感情として当然欲しくなる。でも、それは無理。その点が「老いらくの恋」と「青春の恋」との決定的な違いだな・・・(20時45分)
でも、今日は「賛歌」という表題にした。なぜかというと、70代に達してからの恋愛によって、自分がすごく若返り、精神も活性化されたように感じるからだ。「老いらくの恋」という言葉が日本には昔からあるが、実感としては、青春時代の恋愛とほとんど違わないのではないか。僕の場合は基本は性愛。相手の女も30代までで、比較的若い。昔から言われている「老いらくの恋」と違うのかどうか、それは分からない。
Nとの関係は、ついに安定期に入ってきたように感じている。ということは、急性期の恋愛症候群を乗り越えて、家族を形成する次の段階に入りつつあるのかもしれない。「かもしれない」と断定を避けるのは、僕の心がとても変わりやすいからだ。いまだに誰かさんへの思いが強い。昨日Nが自分の家に帰ってから、ほとんどNと同じくらい誰かさんのことも思っている。そして誰かさんに会いたくなったので、今週ゴルフの予約を入れてしまった。彼女は受けてくれた。きっと戸惑ったことだろう。仕事とはいえ、別れた男にまた会うのだから。罪作りなことをしているのかもしれない。
さて、最近気が付いたことがある。もしこのブログを書いていなかったら、恋愛劇は成立していなかったかもしれない。出会いのことから、その後のデートの詳細を綴ることによって、僕は自分自身が恋愛小説の主人公になったような感じになり、物語をどのように展開させるか考えるようになったからだ。つまり、「いかに物語を面白くするか」ということを考えながら恋愛をしていたわけだ。もちろん無意識にそうしていたのだと思う。
今も誰かさんのことを強く思っていることすら、ひょっとして自分の心の奥底にある思いではなく、「誰かさんか、それともNか」という葛藤に揺れる男心を半分ノンフィクション、半分フィクションとして描こうという欲求が根本にあるのかもしれない。その意味では、ブログがなければ、誰かさんとの生活は何の波風も立たなかったのかもしれない。つまり、ブログのネタとして恋愛劇を求めたのかもしれない。
なぜこんなことを書いているかというと、いきさつはともかくとして、もうNという一人の女性とは切っても切れない関係に入っているような気がしているからだ。彼女が僕の最後の伴侶となるような感覚が自分の中に芽生えている。ごく自然に。それでも万が一、誰かさんとヨリを戻すようなことになれば、それは一種の作家願望のようなものが僕の中にあって、思いっきり冒険をしてみたいという衝動に駆られたときにそうなるような気がする。
「恋愛賛歌」という表題で書き始めたのとは少し違う方向に行っている。でも、結局は年齢などには関係なく、男と女の恋愛は、いや男同士でも女同士でも、(僕はどこかの元秘書官とは違って他人の事なら何の嫌悪感も感じない)人間が生きる上で最高の活力源であり、すばらしい生きがいを与えてくれるものだと確信できた。
前に一度ブログに書いたことがあるが、30代のころに「老人の性(あるいは恋愛と言ってもいい)」について、テレビのドキュメンタリー番組で何人もの高齢者を取材したことがある。そのときはあまり理解できなかった高齢者の異性への感覚が今はわかるようになっている。「80歳を過ぎた今でも、若い頃と同じように女にときめく」と言った男性の言葉がよくわかる。ただし相手の女性は60代だったけれど(笑)。きっと僕は80代になっても自分より遥かに若い女を求めるだろう。できることなら、その相手がNか誰かさんであることが一番幸せのような気がする。
(2月6日、19時35分)
ワインを飲みながら一気に書いたので、論理的には意味不明のことを書いているかもしれない。恋愛は論理的には説明が困難なので、ご容赦あれ。
ところで、誰かさんがまだ家にいた頃は、夜はいつもNとLINEで会話していた。ところが今は誰かさんがいないのに、ほとんどLINEのやり取りがなくなった。「恋愛症候群を乗り越えて」と書いた根拠の一端だ。つまり、心ときめく関係ではなく、日常になりつつある。Nと夫婦関係に近づいているように感じる理由のひとつでもある。
本音を書こう。ひとつだけ、とっても残念に思うことがある。誰かさんとの子づくりを本気で考えたことがある。でもダメだった。だから、どんなにNと愛し合っても、子供はできないだろう。僕は決して「生産性云々」というような人間ではないが、相当に古い価値観も持っている人間なので、男女が愛し合えば、その結晶としての子供は人間感情として当然欲しくなる。でも、それは無理。その点が「老いらくの恋」と「青春の恋」との決定的な違いだな・・・(20時45分)
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